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紀伊半島の海岸地形----瀞峡、鬼ヶ城、那智大滝、橋杭岩、潮岬、天鳥の褶曲、
                  南方熊楠記念館、天神崎、紀三井寺、和歌山城、根来寺


 「どうしてこの山はこんなに高くなったのだろう」 とか、「どうしてこの高山植物はここに咲いているのだろう」 などを考えるのを「山の自然学」というが、その元祖が東京学芸大学教授の小泉武栄先生である。先生の巡検はめっぽう面白い。知れば知るほど疑問が増えるからである。先生の「追っかけ」を以て任ずる「山遊会」の仲間と年に数回の巡検に行くが、今回のテーマは紀伊半島の海岸地形である。

 紀伊半島南部と言えば、どことなく四国南部と似ているような気がする。南国紀州と南国土佐であるから気候・植生も似ている。紀州には熊野古道、四国には霊場八十八か所、という宗教的遺産がある。

日本列島の誕生の歴史からいえば、日本列島が北西半分(大陸側、内帯)しかなかった7000万年前に、南東半分(太平洋側、外帯)が南の海からイザナギプレートに乗ってやって来て、合体した。その継ぎ目は中央構造線といわれ、四国や紀伊半島の北部を東西に横断している。

このように類似点の多い四国南部と紀伊半島南部であるが、地質図を見ていて1つの違いに気がついた。四国南部にはない火山作用が、紀伊半島南部にはあることだ。紀伊半島南部では、熊野酸性岩という火成岩が熊野層群という堆積岩の中に貫入して、那智滝、鬼ヶ城、橋杭岩など特異な風景を作っているようである。他にも大峰酸性岩が瀞峡を、潮岬火成複合体が潮岬と大島を作っているらしい。このように火山の影響が大きいのも紀伊半島南部の見どころかもしれない。                    (2010年5月)

 
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     天鳥の褶曲
地層がまだ固まらないうちに左右から圧縮されると、波打った形に褶曲する。「天鳥の褶曲」は見事なもので、国際的にも有名である。

 
 
 
 
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紀伊半島全図
赤字は主な訪問地  青字は参考地


紀伊半島南部の詳細図
赤字は訪問地



1日目(5月15日)  南紀白浜空港瀞峡熊野川河口七里御浜
        →
鬼ヶ城丸山千枚田那智勝浦
(泊)

南紀白浜空港から瀞峡へ

熊野川支流の北山川にある、岩壁が川面からそそり立つ渓谷は瀞峡といわれ、古来、紀伊の景勝地である。紀伊半島の海岸地形巡検は、まず内陸の瀞峡観光から始まった。

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紀伊観光の玄関口となる南紀白浜空港 4日間、このバスのお世話になる

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富田川を遡る道は、熊野古道の中辺路といわれる 峠を越えると、富田川水系から熊野川水系に移る

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瀞峡ジェット船の志古乗場 熊野川の支流北山川に降りて、ジェット船に乗る

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浅瀬を走る船はスクリューでは無理で、昔はプロペラ船だったが、今はウォータージェット船。
プロペラ船はすごい爆音だったが、ジェット船は静かだ

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北山川を遡るとき左側(手前)は和歌山県、右側(向う)は三重県、
行く手は奈良県だが、和歌山県の飛地もあり県境は複雑だ。
和歌山県と三重県を結ぶ橋をくぐる。
北山川は、大峰花崗岩類に伴う熱水変質帯を刻んで流れる。
砂岩や泥岩がマグマの熱により、硬いホルンフェルスに
変成したため浸食に耐え、峡谷を形成しているのだろう。

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両岸に絶壁が現れると、船の天井が開く 三重県と奈良県とを結ぶ吊橋

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獅子岩 こま犬岩 紅白の首輪を付けている

すれ違うジェット船



熊野川河口・七里御浜

瀞峡から熊野川沿いに河口に出て、熊野灘を望みながら海岸を北上して、七里御浜へ行く。

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熊野川下流の左岸に見られる柱状節理(熊野酸性岩類の花崗斑岩)
柱状節理ができるメカニズムについては、クリックして、ご覧下さい。
表示された頁の上から1/3くらいの所に図解してあります。
熊野川の河口は熊野灘に繋がる
 
 

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紀宝町は、 熊野川を隔てて和歌山県新宮市と隣接している。
産卵のためアカウミガメが上陸する。毎年5月1日~9月31日は、
車の海岸への乗り入れが規制される。
海岸林を抜けて浜辺に出る
七里御浜は、熊野古道伊勢路の一部として
使われてきたという文化的な価値も有している。 

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海岸には数cmの大きさの礫が一杯。熊野川から
流出し、熊野灘の黒潮に流されて堆積したもの。
 
左から、花崗斑岩、泥岩、流紋岩
熊野川の上流の地質を反映していて面白い
 
熊野地方から産出する、黒色の緻密な
珪質泥岩は那智黒と呼ばれ、
硯石、黒碁石に加工される。


鬼ヶ城

七里御浜から海岸沿いに北上し、三重県熊野市木本町にある海岸景勝地
「鬼ヶ城」を訪ねる。

国指定天然記念物「熊野の鬼ケ城 附 獅子巖」

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天井や壁には蜂の巣状の風蝕痕がある
石英粗面岩の大岸壁が東西1.2kmにわたって連なり、岬の崖は一段の高さ2~4mの6段からなる階段状をなし、
数回にわたる急激な地盤の隆起のあとを残している。各段ごとに波蝕洞窟があり、洞窟はいずれも入り口の上端が
鋭くとがり、天井部には風蝕痕があり、床面は板のように平かな棚となっている。

石英粗面岩流紋岩)は火山岩の一種で、深成岩の花崗岩に対応する成分の火山岩である。流紋岩の名称は、マグマの流動時に形成される斑晶の配列などによる流れ模様(流理構造)がしばしば見られることによる。
以前は、流理構造の見られないものを石英粗面岩と呼んでいたが、現在では流紋岩に統一され、石英粗面岩の名称は用いられない。                  Wikipediaより引用



ここでチョット、岩石の大雑把な分類

分 類 定  義 化学組成 岩石の例
火成岩 火山岩  マグマが地上で固まってできた岩石 塩基性 玄武岩
中 性 安山岩
酸 性 流紋岩
深成岩  マグマが地下で固まってできた岩石 塩基性 斑れい岩
中 性 閃緑岩
酸 性 花崗岩
変成岩  火成岩、変成岩、堆積岩に、新たに圧力・温度が加え
 られ、別のものに変わった岩石
  片岩、片麻岩
堆積岩  海底や地上で、礫・砂・泥などの砕屑、生物が作った
 炭酸塩、火山砕屑、などが堆積してできた岩石
   礫岩、砂岩、泥岩、
 石灰岩、凝灰岩 
 
塩基性・・・ 珪酸SiOの含有量が少いもの
   中性・・・・・珪酸SiOの含有量が中くらいのもの
   酸性・・・・・珪酸SiOの含有量が多いもの



丸山千枚田

鬼ヶ城で折返して南下し、紀和町丸山にある日本最大級の棚田「丸山千枚田」を
訪ねる。ここは日本の棚田百選の1つとなっている。

ここの棚田が史料文献に初めて登場するのが、関ヶ原の戦いの功により紀伊に移封された浅野幸長による慶長6年(1601)の検地の記録。7ha、約2240枚の棚田があったと記録されているという。その後、明治時代には11.3haにまで増え、戦後20数年間は、ほぼその規模で維持されてきた。しかし、昭和40年代半ば以降、過疎化・高齢化などにより耕作面積が減少。平成初期には明治期の半分以下の4.6ha、500枚程度にまで減少した。

貴重な文化的景観である千枚田をこのまま荒廃させるわけにはいかないと、地元住民と紀和町が立ち上がり、千枚田の復旧作業が始められた。田が狭く機械が入らないため、手作業による地道な復旧作業の末、現在では7.0ha、1340枚にまで回復したという。熱のこもったボランティアさんの説明が嬉しかった。


5月中旬、水を張られた水田は、すでに田植えが終っていた



2日目(5月16日)  那智勝浦那智大滝荒船海岸虫食岩橋杭岩大島
  →潮岬古座川の一枚岩天鳥の褶曲白浜(泊)

那智大滝

那智大滝は、華厳滝、袋田の滝と共に日本三名瀑に数えられていて、国指定の名勝。
那智山中には、いくつかの渓流があり、その渓流には60余に達する多くの滝が架かっているという。「那智滝」とは、本来は、那智山の多くの滝のうち、瀧篭修行の行場として扱われた48の滝(那智四十八滝)の総称である。一般に那智大滝として知られている滝はこれらのうち、一の滝を指している。那智山一帯は、滝に対する自然信仰の聖地である。

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昨夜の宿泊は、那智勝浦にある公立学校共済の「サンかつうら」
 
飛瀧神社の境内に設けられた滝見台から
見る那智大滝は落差133m

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大滝は飛瀧神社のご神体である 大滝の前で集合写真

大滝は、熊野酸性岩類の硬い花崗岩と、軟らかい熊野層群の境界に形成された。
柱状節理っぽく見えている岸壁が花崗岩で、これが浸蝕に強いため滝ができたことが分る。



ここでチョット、日本列島の誕生と紀伊半島の地質

紀伊半島の地形を理解するために必要な日本列島の誕生と、紀伊半島の地質をまとめて紹介しよう。

日本列島の誕生

日本列島は、まず1億8000万年前にユーラシアプレートの東端に列島の大陸側半分(内帯)ができた。1億3000万年前に南方で生まれた列島の太平洋側半分(外帯)がイザナギプレート(今は存在しない)に乗ってやってきて、7000万年前に合体してできた。その後日本海が割れて、独立島となったという。
                    平朝彦 岩波新書 「日本列島の誕生」より改変

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1億3000年前(白亜紀前半) 7000万年前(白亜紀後半)

海洋プレートは海溝に沈み込み、大陸プレートの端に付加帯を残す  平朝彦 岩波新書 「日本列島の誕生」より改変

現在の地球は約30枚のプレートで覆われている。日本列島では、2つの大陸プレート(ユーラシアプレートと北米プレート)と、2つの海洋プレート(太平洋プレートとフィリピン海プレート)の4つのプレートが押し合いしている。
このような考え方をプレートテクトニクスという。  
                             図はWikipediaより引用



紀伊半島の地質

上に述べたプレートテクトニクスの考え方に従うと、四国と紀伊半島の地質は理解しやすい。

四国と紀伊半島の地質は、主に南方から押し寄せてきた三波川帯、秩父帯、白亜紀四万十帯、第三紀四万十帯などが東西に帯状に広がっている。その後、紀伊半島南部には第三紀四万十帯の上に田辺層群と熊野層群という中新世堆積岩が堆積した。さらにその後、熊野層の中に火成岩である熊野酸性岩が貫入した。


紀伊半島南部の地質図 (産業技術総合研究所地質調査総合センター20万分の1地質図を改変))
紀伊半島南部の基盤をなす第三紀四万十帯の上に今から1400万年前に熊野層が堆積した.泥岩と砂岩からなる互層である。
その後、熊野層の中に火成岩である熊野酸性岩が貫入した。熊野酸性岩は流紋岩、流紋岩質凝灰岩、花崗斑岩などからなる。
熊野酸性岩は、その活動の最後の段階で、結晶性凝灰岩、石英斑岩、花崗斑岩からなる弧状岩脈を作った。
潮岬・大島は潮岬火成岩複合岩類からなる。



荒船海岸

那智勝浦から串本町の東端まで南下して、熊野灘沿いに3kmにわたって奇岩が続く荒船海岸を訪ねた。

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「これが熊野層群といわれる泥岩です」と説明する小泉先生
 
 
熊野層群の上に育つウバメガシはブナ科コナラ属の常緑広葉樹。材は緻密で極めて硬く、比重が大きく、水に入れると沈む。備長炭の原料として利用される。和歌山県の県木である。

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海岸に出る 熊野層群の奇岩が続く

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紀伊半島は約100年ごとに大きな地震がある。
地震の度に2mほど隆起しては元に戻ることを繰り返しているという。
ここにも那智黒が打ち上げられていた
 



虫食岩

水と風に浸食されて特徴のある奇岩群が数多く残る古座川町。その中でも特徴のある虫食岩は、国の天然記念物にも指定されている。

これが虫食い岩の全景

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近づいてみると、卵大から頭大まで、いろいろなサイズの穴が無数に空いている。
現場の石碑には「天然記念物高池之虫喰巌」とあるだけで、成因の説明はない。
ものの本によると「この岩帯は流紋岩質結晶凝灰岩で新しいものは暗緑灰色であるが、
風化すると褐色となり、蜂の巣状風化構造ができやすい」と書いてあるが、
なぜそうなるのか、私には全く想像もできない。きっと岩が好物の虫がいたのだろう。



橋杭岩

「虫食い岩」と語呂合わせではないが、和歌山県串本町にある国の天然記念物「橋杭岩」を訪ねる。どのようにして出来たか漫画入りの説明があり、納得。

ここには次のような伝説があるという。昔弘法大師が天の邪鬼と串本から沖合いの島まで一夜で橋をかけることが出来るか否かの賭けを行った。弘法大師が橋の杭をほとんど作り終えたところで天の邪鬼はこのままでは賭けに負けてしまうと思い、ニワトリの鳴きまねをして弘法大師にもう朝が来たと勘違いさせた。弘法大師は諦めて作りかけでその場を去った。そのため橋の杭のみが残ったという。

橋杭岩の全景 (5枚のパノラマ写真)

現地の説明パネルを要約すると、
熊野層群の泥岩層の割れ目にマグマが上昇し、冷え固まって石英斑岩の岩脈となった。
泥岩層は海水により浸蝕されてなくなり、石英斑岩の岩脈が橋杭のように残ったという。

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大小約40の岩が南西一列におよそ850メートルもの長きにわたって連続してそそり立っている。岩の厚みは数m程度。 海岸の泥岩の上に酸化鉄の塊がついている。
原因はよく分らないが、ノジュールといわれるものの一つ。
 
ノジュールとは、堆積物中にできた塊状のもので、中心部に核となる化石や砂粒などが入っていることがよくある。すなわち、核となるもののまわりにケイ酸分や炭酸塩、鉄分などが堆積してできたともいえる。



大島

       ここは串本 向かいは大島 仲をとりもつ 巡航船
          アラヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ
       潮岬に灯台あれど 恋の闇路は 照らしゃせぬ
          アラヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ
と串本節に歌われた潮岬と大島(紀伊大島)。

潮岬は典型的な陸繋島である。もともとは潮岬は浅瀬で隔てられた島であったという。我々は串本からコンクリートで固められた砂洲を通って潮岬に入り、くしもと大橋でつながった大島に上陸する。巡航船は今はない。

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海金剛から望む断崖絶壁、遠くに樫野埼灯台が見える 望遠レンズでとらえた樫野埼灯台

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トベラ(トベラ科トベラ属)は海浜植物
 
フウトウカズラ(コショウ科)は雌雄異株で、写真の雄花は
雌花に比べより長く,10cmを超えるものも珍しくない。

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海金剛に日米修好記念館がある。ペリー来航よりも62年前、
米商船2隻が寄港したことを記念して建設された。
記念館の内部には船の模型、文献等が展示されている。
 

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太平洋を越えてやってきたレイディ・ワシントン号は僅か90トン
 
我が国ではあまり知られていないケンドリック船長
の業績について展示されている

我々は訪ねなかったが、樫野埼灯台の近くに1890(明治23)年のトルコ軍艦遭難の慰霊碑とトルコ記念館がある。ここは本州最南端であるだけに、歴史上も興味深い地である。トルコ軍艦遭難事件と日土関係についてはWikipediaに詳しい。



潮岬

大島から潮岬に戻って潮岬灯台とその周辺を観察する。

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潮岬と串本はコンクリートで固められた砂洲で結ばれている 潮岬灯台
 
灯台の隣にある潮御崎神社は、社伝に
よると「日本書紀」に記載された神社という

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潮岬灯台の海側で、
「ここに枕状溶岩がある」と説明される小泉先生 
この玄武岩質の枕状溶岩は、南の海で生まれて
四万十帯に乗ってここにやってきたという

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両側の玄武岩の間に貫入した珪長質の岩脈 珪長質の岩脈の貫入は道の反対側まで続く

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珍しい放射状節理を示すドレライト(粗粒玄武岩)
 
ドレライトを割ってみると、変質して緑がかっているものが多いので、
輝緑岩ともいわれる

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ハマエンドウ ハマダイコン ハマダイコンの種子

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ハマヒルガオ ハマツバキ? ○○○



潮岬観光タワーで昼食

潮岬の南端にある岬観光タワーで昼食の海鮮料理を食う。ここのマグロは、すべてではないだろうが、「近大マグロ」と呼ばれる。近大マグロとは、近畿大学水産研究所が1970年から研究を開始し、2002年6月に完全養殖に成功したマグロである。

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古座川の一枚岩

串本から内陸に入り、古座川の一枚岩を見学する。古座峡沿いにほぼ東西に走る大規模な弧状岩脈の結晶質凝灰岩でできた巨大な一枚岩。高さ100m、幅500mで国指定天然記念物である。

7枚のパノラマ写真でやっと収まった古座川一枚岩

土産物屋の鹿鳴館の横から眺める一枚岩

古座川弧状岩脈について

              和歌山県立自然博物館ホームページより
                http://www.shizenhaku.wakayama-c.ed.jp/
約1400万年前・・・
・紀伊半島南部には巨大な火山があった。多量の火砕流が噴出し地表が陥没したため、巨大なカルデラが形成された。そして、マグマ上昇の通り道となった地下の割れ目には次々とマグマが貫入し、地下では巨大な火成岩脈が形成された。長い年月の間に風化・浸食を受けて、かつて存在していたカルデラの地形はすっかり失われてしまったが、地下にあった火成岩脈の一部は現在の地表に現れている。その代表が「古座川弧状岩脈」である。
古座川弧状岩脈とは・・・
幅約500m(最大幅約800m)、長さ約22kmの巨大な岩脈で、巨大カルデラの南のへりを構成していたと考えられている。巨大カルデラの規模は南北径40km、東西径20km。現在の串本町、古座川町、那智勝浦町、新宮市、旧本宮町、三重県南部まで広がっていた。これは熊本県阿蘇のカルデラを遙かにしのぐ大きさであったことが推定されている。
日本の地質百選に指定
・岩脈の岩石そのものが石材として利用されるなど、生活文化との密接な関わりもあった。こういった側面も考慮され、平成21年5月10日の「地質の日」に、古座川弧状岩脈は日本を代表する地質遺産の一つとして和歌山県内で唯一「日本の地質百選」に選定された

               巨大カルデラ位置推定図
古座川弧状岩脈が巨大カルデラであったことが確認されたわけではないが、
なんとロマンに満ちた話ではないだろうか。



天鳥の褶曲

地層が屈曲している「褶曲」は随所で見られるが、あっと驚くような大褶曲は少ない。「天鳥の褶曲」として知られる和歌山県すさみ町の大褶曲は、平朝彦先生の名著 岩波新書「日本列島の誕生」にも写真が掲載されていて、ぜひ見学したいものだと思っていた。今回幹事さんのご尽力でこれが実現したわけだが、チョットしたハプニングがあった。

1万2千分の1地形図上のGPS軌跡  3度目の挑戦で、やっと大褶曲に辿り着いたことが分る

天鳥の褶曲(初挑戦)

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明光バスの天鳥付近ということで、黒崎の西岸を調べる
 
褶曲1(黒崎の西岸)は、目指す大褶曲ではない。
やむなく一部の人はここから岸壁沿いに黒崎の東岸に移動する。

天鳥の褶曲(再挑戦)

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大多数の人は一旦バス停に戻り、黒崎の東岸から攻める  岸壁沿いに東岸に回ってきた人と出会う

褶曲2(黒崎の東岸)は見事な砂岩・泥岩互層ではあるが、目指す大褶曲は見つからない。今日はここまでとする。



白浜「鯛鼓判」で夕食

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今日の宿は、白浜の「海のお魚茶屋 鯛鼓判」 海鮮料理がたっぷり

総勢45名の大宴会


3日目(5月17日)  白浜志原海岸天鳥の褶曲白浜のグラスボート南方熊楠記念館
  →天神崎うめ振興館醤油発祥の地・紀州湯浅和歌山市(泊)

志原海岸

朝一番で出かけたのは、白浜町の志原海岸。ここは日置川の河口で、熊野灘に向かって畳を敷きつめたような「志原の千畳敷」といわれる岩場がある。

白浜という町名でもここは褐色の砂浜である

ここの地層は田辺層群といって、1400万年前に堆積した砂岩・泥岩互層である。付加体ではなく、ここで堆積したもの。


A この海岸には漣痕(リップルマーク)や底痕(ソールマーク)が多い。

漣痕(リップルマーク)
水底に波が形成した模様が残ったもの。底痕とは逆型になる。

底痕(ソールマーク)
堆積粒子や水流そのものにより堆積物の表面につけられた溝が、その上に堆積した砂や礫によって埋められてできたもの。水の流れの作用によって形成されたもの(流痕)、重力の作用で形成されたもの(荷重痕)、生物の活動によって形成されたもの(生痕)などがある。

   http://homepage2.nifty.com/izumonotisitu/teikon.htmlより引用



天鳥の褶曲

天鳥の褶曲(再々挑戦)

昨日黒崎の西岸と東岸を調べて見つからなかった「天鳥の褶曲」を、今日は観光協会の職員に案内してもらう。果たして「3度目の正直」は成り立つか?

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目立たぬ道路脇から海岸に下る 海岸が見えるが、目指す大褶曲はいずこに

ついに見つけた「天鳥の褶曲」



想像を逞しくして、褶曲の成因を考えてみよう


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                 水平層
基盤が水平な場合は、特別の外力がなければ、堆積する地層は水平になる。当然、古い地層が下に、新しい地層が上になる。 
               褶曲(しゅうきょく)
水平層に横方向から圧縮力が加わった場合、地層が軟かければ、山と谷のシワができる。山の部分を背斜、谷の部分を向斜という。


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                  逆断層
水平層に横方向から圧縮力が加わった場合、地層が硬ければ、逆断層ができる。古い地層が新しい地層の下に潜り込む。 
              逆断層と撓曲(とうきょく)
水平層に横方向から圧縮力が加わった場合、下の古い地層が硬く、上の新しい地層が軟らかければ、逆断層と橈曲が起こる。 


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                 海底地すべり
地震などのため海底で地滑りが起こると、今まであった地層が押しつぶされる。一種の「スランプ構造」である。
  
               見かけの大褶曲?
もし小さな褶曲を斜めの断面で見れば、見かけ上は大褶曲に見えることもあるだろう。3次元のものを2次元の断面で見る場合は注意が必要! 

褶曲に関係がありそうな現象を想像を含めて集めてみた。「天鳥の褶曲」の成因はいずれだろうか。写真のようにひどく曲がるのだから「海底地滑り」かもしれない。



南紀白浜 グラスボート

白浜の名物グラスボートに乗ったが・・・

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海底観光船グラスボートに乗り込む
円月島を巡る30分の海底旅行の間、海女のショーもある
 
円月島(正式には「高島」という)
臨海浦に浮かぶ南北130m、東西35mの小島、島の中央に円月形
の海蝕洞がぽっかり開いている。日の沈む夕景は格別という。

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船底のガラスを通して海底を見るが、見辛い。
 他の海底観光船ではいろいろと工夫しているのに・・・
魚や海女のショーを見るのだが、船底の外面に溜まった空気が邪魔になり見辛い。
船底のガラスを斜めにして空気が自然に抜けるようにすれば解決するのに・・・



昼食は海鮮丼

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南方熊楠記念館

南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年 - 1941年)、和歌山県出身の博物学者、生物学者(とくに菌類学)、民俗学者。1892年にはイギリスにわたって、天文学会の懸賞論文に1位で入選した。大英博物館東洋調査部に入り、資料整理に尽くし、人類学・考古学・宗教学などを独学するとともに、世界各地で発見、採集した地衣・菌類に関する記事を、科学雑誌「ネイチャー」などに次々と寄稿した。菌類の研究では新しい種70種を発見し、また、自宅の柿の木では新しく属となった粘菌を発見した。

語学にはきわめて堪能で、英語、フランス語、ドイツ語はもとよりサンスクリット語におよぶ19ヶ国語の言語を操ったといわれる。また、田辺では、1906年末に布告された「神社合祀令」によって神社林(いわゆる「鎮守の森」)が伐採されて生物が絶滅したり、また生態系が破壊されてしまうことを憂い、翌1907年より神社合祀反対運動を起こした。今日、この運動は自然保護運動、あるいはエコロジー活動の先がけとして高く評価されており、その活動は、2004年に世界遺産にも登録された熊野古道が今に残る端緒ともなっている。                           Wikipedia他より


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南方熊楠記念館は、海岸から少し登る高台にある。
高台は番所山といわれ、幕末には黒船の監視所があった。
シマナンヨウスギ(島南洋杉、ナンヨウスギ科、ナンヨウスギ属)は
オーストラリア ノーフォーク島原産

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オオタニワタリ(別名タニワタリ、チャセンシダ科、チャセンシダ属) ビカクシダ(別名コウモリラン、ウラボシ科、ビャクシダ属)

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南洋植物園のようなアプローチを抜けると、
博物館の玄関に辿り着く
博物館の内部は撮影禁止だが、詳細が写らない1枚だけ撮らせて頂く。
生きている粘菌を顕微鏡で観察することができた。

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1917年8月にこの粘菌を自宅の庭で見つけ、大英博物館の粘菌学者リスター女史に送った。新属新種と認められ、Minakatella longifila と命名され、イギリスの植物学雑誌に三色刷で掲載された。 1991年(明治24年)フロリダ州ジャクソンヴィルで撮影して友人に贈った写真 上の写真と左の写真は販売されているアルバムから 記念館の屋上から望む番所山と熊野灘
常緑広葉樹が茂り、南方の研究環境を彷彿させる。
 
 


 
天神崎ー日本のナショナル・トラスト発祥の地

ちょっと長いですが、お読みください
天神崎は、和歌山県田辺市の海岸にある岬のひとつで、ナショナルトラスト運動の日本における最初の例の一つの舞台になったことで有名である。天神崎の価値については、様々な判断があり、いろいろな論議がされている。批判する向きからは、ありふれた生物ばかりで希少な自然とは言えないという。

保護する立場からは、当然ながらその重要性が主張されるが、実際のところ、特別に貴重、あるいは希少な生物が多いわけではない。例えば対岸にある京都大学瀬戸臨海実験所の所長であった時岡隆は「そう珍しいものはない。しかし、よそにもあるからと言って破壊を続ければ、どこにもなくなってしまう」と説明している。つまり、身近で普通であった自然が、実際に身近に普通に、しかもまとまって存在していること自体が既に貴重だと言う主張である。

この岬を高級別荘地として開発する計画が発覚したのは、昭和49年(1974年)1月のことで、これに反対の声を上げたのが、当時田辺商業高校教諭であった外山八郎である。彼は生物学関係の教師や地方紙の社長等と相談した上、反対運動を立ち上げる。2月に「天神崎の自然を大切にする会」(以下、「会」と略称)が発足、署名運動を開始、県知事に陳情。これを受けて業者側は計画を大きく縮小し、再申請、県と市もこれを受け入れる姿勢を見せる。

「会」はこれに対し、反対運動を続けることを決定、運動経費の為に募金活動も始めるが、募金活動は遅遅としてはかどらなかった。1978年ようやく「会」は、その所有地の一部を買い取ることを決断する(第一次買い取り)。なお、この会がナショナル・トラストという運動のあり方を知ったのはその後である由。財団法人「日本自然保護協会」がバックアップしたが、募金は一向に集まらず会合や催しなどで経費ばかりが増えていき、銀行への返済もままならぬ状態に陥った。そんなときに救いの手を差し伸べたのは行政である。県から資金援助を受けた田辺市が第一次、第二次買い取りで手に入れた土地を買い取り事なきを得、運動を継続することが出来た。外山は今までの運動に対し「10年間も待ってくれた業者や関係者の温かい心こそ、天神崎ナショナル・トラスト運動を実らせた陰の力だと感謝している」と述べている。

当時、各地で同様な取り組みが始まっていたことから、政府内部でも検討が行われた結果、ナショナル・トラスト法が制定され、「会」は1987年に自然環境保全法人(ナショナル・トラスト法人)の第1号に認定された。
                                                         Wikipediaより要約


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トラスト運動のことを示すパネル 天神崎の植物相を示すパネル

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海岸沿いの道は広く、学校の環境教育の場としても便利という 丸山灯台 現在は灯台としての役目を終え、建造物として残っている

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ハマアサガオ トベラ

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タブノキ ハマツバキ



みなべ町・うめ振興館

通りががりに、みなべ町のうめ振興館に立ち寄る。一口に「梅干」と言っても、梅の種類、塩分濃度、蜂蜜等の味付けなどで幾通りもある。試食を楽しんで、お土産を買った。

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うめ振興館 梅にはいくつか種類があるが、何といっても「南高梅」が生産量で一番



醤油発祥の地・紀州湯浅

和歌山県湯浅町の工業についての起源は13世紀はじめの金山寺味噌の製法に始まるといわれる。金山寺味噌の醸造が進むにつれ槽底に沈殿する液で食物を煮ると美味なことを発見し、その後工夫を凝らし遂に醤油を製造するに至った。これが湯浅醤油の始めであるという。

醤油工場はお土産の醤油も販売している

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金山寺味噌?
鎌倉時代に南宋から伝わった嘗味噌(金山寺味噌)の汁が醤油の始まり
湯浅町には、醤油作りに所縁の街並みが保存されている
 

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角長醤油の職人蔵を覗いて見る 慶応2年(1866年)建築で内部は民具館 江戸から明治にかけて使われた醤油しぼり機



和歌山京橋の居酒屋で打上げ

ここまで2泊3日の巡検が無事終わった。45人のうち18人とここでお別れし、
明日からはオプションとして和歌山市を見物する。 見学の対象が自然から
人文に替わるわけである。

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                  和歌山市の市堀川に架かる京橋
市堀川は、かつては和歌山城の外堀で、紀州藩主が参勤交代で江戸へ向かう際はここを通ったとされる。現在の橋には、籠の形をした「からくり時計」がある。童謡「鞠と殿様」のメロディが流れる仕掛けになっている。
         京橋の居酒屋で打ち上げ
今夜が全員が揃う最後。和洋の発酵酒、蒸留酒、カクテルが飲み放題ということで、修士の学生さんにエールを送りながら、それを肴にして盛り上がる。



4日目(5月18日)  紀三井寺紀ノ川河口の輪中和歌山城
      根来寺
根来断層の露頭関西空港

紀三井寺

紀三井寺(きみいでら)の正式名は紀三井山金剛宝寺護国院で、西国三十三箇所第2番札所(因みに第1番札所は那智山青岸渡寺)。伝承によれば、宝亀元年(770年)、唐僧の為光が、名草山山頂から一筋の光が発せられているのを見た。そこで、為光は自ら観音像を彫刻し、草堂を造って安置したのが紀三井寺の始まりであるという。
境内は関西一の早咲き桜として知られており、観桜の名所として名高い。


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紀三井寺の参道の果物屋さん 紀州の名産みかん類が豊富で安い 国指定重要文化財の楼門

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長い参道の石垣は「三波川帯変成岩だ」と、まだ自然学が忘れられない様子。

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このクスノキは樹齢約400年と推定され、幹周6メートル、後白河法皇(1192年没)お手植のものが代替わりしつつ伝えられているといわれている。

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県指定重要文化財の本堂 国指定重要文化財の多宝塔

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新仏殿で平成20年に開眼された日本最大の観音像「総漆金箔張大千手十一面観音菩薩」が公開されていた

新仏殿の最上階の展望台から望む和歌山市街と和歌浦
和歌浦は元々、若の浦と呼ばれていた。聖武天皇が行幸の折に、お供をしていた山部赤人が詠んだ歌
「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」が有名。半島のかなたに淡路島が見える。


紀ノ川河口の輪中

輪中(わじゅう)とは木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)とその支流域に存在した堤防で囲まれた構造あるいはその集落のことである。曲輪(くるわ)、輪之内(わのうち)とも呼ばれる。一般に輪中地域では生死を共にする輪中内での結束力は強かったが、他の輪中とは険悪な仲であった。他の輪中の堤防が自分たちのものより高くなることは自分たちが水害に遭うことに等しかったからである。このような水害から自分の住む輪中を守るためにその中での結束が固くなるが他の輪中の人に対しては冷ややか、という排他性から「輪中根性」という言葉が生まれた。

紀ノ川河口にもあるというので、訪ねた。しかし、かつてのような生活を窺うことはできなかった。

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輪中の中に立ってパノラマ撮影をしてみた。撮影地点が低いのでよく分らないが、紀の川河口大橋、紀の川大橋が写っている(赤線はGPS軌跡)

上とほぼ同じ場所の上空のSPOT衛星から見た3D画像。和泉山脈の向うに大阪湾と六甲山系が見える



和歌山城

和歌山城は、徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の居城であり、国の史跡に指定されている。
秀吉の弟・秀長は、1585年の紀州征伐の副将として参陣した。平定後にこの地に秀吉が築城を命じ、1年で完成させた。この際に「若山」を「和歌山」と改めた。1619年、徳川家康の十男・頼宣が55万5千石で入城し、御三家の紀州徳川家が成立した。
天守は旧国宝に指定されていたが、和歌山大空襲で焼失し、現在のものは1958年に鉄筋コンクリート構造により外観復元されたものである。

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北西隅の観光バス駐車場から入る 西の丸庭園(紅葉渓庭園) 御橋廊下が見える

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要所に橋や建物(鳶魚閣)が配され、江戸時代初期に造園された名園である 一重のシャクヤク

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穴蔵状遺構
大奥の発掘調査で、収納施設が見つかった。
非常の際の大奥の調度などが納められていたと考えられる
化石のある和泉砂岩
穴蔵状遺構付近の石垣から発見されたコダイアマモ(植物)の化石は、中生代白亜紀末約7000万年前のもので、友ヶ島で採石されたようである。

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楠門の前の広場に植えられたセンダン
 
センダンの花  「双葉より芳し」と言われたのは
センダン(栴檀)ではなく、ビャクダン(白檀)らしい。

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楠門(天守二の門) 左は小天守と玄関、右は大天守

大天守の最上階から眺める紀の川河口方面(淡路島が見える)



根来寺

根来寺(ねごろじ)は和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院。
平安時代後期の高野山の僧で空海以来の学僧と言われた覚鑁(かくばん)が1130年に高野山内に一堂を建て、伝法院と称したことに始まる。

覚鑁は当時堕落していた高野山の信仰を建て直し、宗祖・空海の教義を復興しようと努めたが、高野山内の衆徒はこれに反発し、1140年には、覚鑁一門の寺院が高野山内の反対勢力により焼き討ちされるという事件が発生。覚鑁一門は高野山を下りて、大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺(ぶふく)に拠点を移し、一山総称としての根来寺が形成された。

室町時代末期の最盛期には坊舎450を数え一大宗教都市を形成し、寺領72万石を数え、根来衆とよばれる僧衆(僧兵)1万余の一大軍事集団を擁した。また、根来寺僧によって種子島から伝来したばかりの火縄銃一挺が持ち帰られ、僧衆による鉄砲隊が作られた。このとき生産地となった近在の雑賀衆(さいかしゅう)の鉄砲隊とともに織田信長・豊臣秀吉に抵抗するが、1585年秀吉により大師堂、大塔など数棟を残して焼討ちされた。   Wikipediaから要約

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根来寺は広い。1976年から発掘調査が行われて、往時の根来寺の規模が400万平方メートル余りと壮大であったことが裏付けられた。 国指定重要文化財の太子堂は1391年頃の建立
 

(左)国宝の大塔(多宝塔)は1547年頃の竣工  (右)県指定文化財の伝法堂は江戸時代後期の再建。



根来断層の露頭

2005年の中央構造線観察の際に根来断層の露頭が見つからず諦めていたとき、道路わきに防水シートがかけられているところを見つけたことを思い出した。近くまで来たので、記憶を頼りに露頭に辿り着いた。今回の巡検の予定にない収穫であった。

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今回も露頭には防水シートがかけられていた 中央構造線の説明パネルは益々朽ちていた。

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             第1回  長野県
第2回  愛知県・三重県
第3回  和歌山県
第4回  徳島県・愛媛県・高知県
表土の下の部分で、左上の白亜紀の和泉層、
右下の第四紀初期の菖蒲谷層が逆断層を作っているらしい。
上記をクリックすると、過去の中央構造線の巡検をご覧になれます 




根来断層露頭の見学を最後に、一路関西空港経由で羽田空港へ向かった。

いつもながら懇切なご指導を賜った小泉武栄先生と、綿密な企画を立てて実行して下さった幹事の小池忠明氏に、お礼申し上げます。



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