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                     出雲国と石見国(2)
 
     三瓶小豆原埋没林公園、三瓶自然館、三瓶山、石見銀山・大森町、代官所跡、龍源寺間歩、
    仙ノ山、清水谷製錬所跡、石見銀山世界遺産センター、板根口、降路坂、よずくの里、沖泊、温泉津温泉、
    やきものの里、恵珖寺、温泉津温泉元湯、龍御前神社、内籐家庄屋屋敷、愛宕神社、温泉津港


 今回の旅は、時空を駆け巡る、つまり四次元世界の旅である。旅の前半「出雲国と石見国(1)」では、神代の昔の国引き伝説の地、スサノオの八岐大蛇伝説の地、天にも届く出雲大社の本殿などを訪ねた。

 旅の後半「出雲国と石見国(2)」では、出雲国の隣国「石見国」を訪ねる。国引き伝説で有名な三瓶山(佐比賣山)、最近発見された三瓶小豆原埋没林、今年登録5周年を迎えた世界文化遺産の石見銀山などである。

 国引き伝説では、日御埼を引いたときに綱を結んだところが三瓶山で、美保関を引いたときに綱を結んだところが大山である。大山は幾度か登ったことがあるが、三瓶山は今回初めて登る。

 三瓶山の麓で発見された4000年前(縄文時代)の埋没林は、ほぼ完全な形で発掘され、三瓶小豆原埋没林公園として保存されている。ここも時空世界の見学として期待している。

 石見銀山については説明するまでもないが、戦国時代から江戸時代の名残を残す間歩(坑道)や製錬所跡を見学し、代官所跡のある古い街道の町並みを散策する。さらに、銀鉱山からポルトガルや中国への銀の積出し港までの銀山街道を、1日かけて歩き、往時の銀や生活物資の輸送の苦労を偲ぶ予定である。

 では、7泊8日の旅の後半5日間をご一緒にどうぞ   (2012年11月)
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     石見銀山街道
石見銀山だけでなく、石見銀山を支えた大森の町並みと、銀を積出した沖泊港までの街道は、世界遺産に登録されている

 
 
 
 
 
 
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今回の旅の全GPS軌跡
主な訪問地   県名  ━━ GPS軌跡  



出雲国の旅は須佐神社を後にして、石見国へ移動した。出雲国の神話の世界と異なり、石見国は、「三瓶山の自然」と「石見銀山の歴史」を堪能する旅である。


4日目後半
(10月28日)
出雲国より三瓶小豆原埋没林公園三瓶自然館三瓶温泉(泊)

三瓶小豆原埋没林公園

1983年、水田の整備工事の際、地中に直立する巨木が出現した。掘れども掘れども続く幹。「不思議な木だなあ」 しかし、地中に立つ巨木の意味を知る由もなかった。工事が終ると小豆原には静けさが戻り、不思議な木のことは忘れられていった。

1998年、地元の火山研究者・松井整司さんが工事中の写真を目にした時から、物語は動き始めた。「これは三瓶火山の歴史を物語る貴重な存在に違いない。」 松井さんは独自に調査を始めた。巨木はなかなか姿を現してくれなかったが、火山灰に埋もれていることなどが次第に解明されていった。

1998年秋、ついに水田の下から1本の巨木が現れた。世界でも例を見ない巨大な地底の森は「三瓶小豆原埋没林」と命名された。
放射性炭素による年代測定で3500〜3700年。これは三瓶山の最後の噴火と一致する。したがってこれらの樹木は4000年前の自然が育んだものといえる。
                           三瓶山小豆原埋没林公園パンフレットより

縄文のタイムカプセルともいえる
三瓶小豆原埋没林公園を、財団職員の
大床さんの案内で見学した。
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三瓶小豆原埋没公園の施設案内 Websiteより

縄文の森発掘保存展示棟

三瓶小豆原埋没林を発掘状態で展示する施設。
直径30mの円形で、深さ13.5mの地下展示室である。中央はタクシーの運転手さん

地下展示室には、立木や倒木が発掘当時のまま展示されている。

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樹種はスギが過半数を占め、広葉樹のトチノキ、ケヤキ、カシが混じっている
 
木は展示しながら薬液を浸透させる保存処理が
行われていた

埋没当時の三瓶山の立体模型
4000年前に男三瓶山が噴火し、岩石なだれ、火砕流、火山灰が谷間を埋めた。
幸い、三瓶小豆原は噴出物の流路ではなかったので、樹木は焼けることなく埋没した。
しかも、豊富な地下水に浸されていたので、樹木は腐敗から免れた。

樹木の埋没状況の説明図



切株展示棟

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切株展示棟の螺旋階段を地下13メートルまで降りると、埋没した杉の根株がある。4000年前に生えていた位置に残されているのである。

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長さ10.2mの巨木の根元を切断したところ、3つの年輪の中心が確認され、合体木の可能性が高い。この合体木の上部は、三瓶自然館ヒサメルの2階から4階の吹き抜けに展示されている。 この施設は、地下水のくみ上げ、湿度調整などを常時稼働させている。
 



三瓶自然館ヒサメル

三瓶山の北の麓にある島根県立三瓶自然館ヒサメルを見学した。三瓶山と埋没林だけでなく、島根県の自然を説明する立派な自然史博物館である。

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三瓶自然館ヒサメル
ヒサメルとは三瓶自然館の愛称で、三瓶山の古称「佐比売山
(さひめやま)」 と 「メール」を組み合わせた造語。
この輪切り標本の直径は1.6mで、443本の年輪がある。
根元では年輪がさらに多いので、樹齢は500年程度と考えられる。
したがって、この木が芽生えたのは4500年前頃である。
























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自然館に展示された地層の剥ぎ取りは、1万6000年で約15mもある

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埋没林の木はそのまま乾燥させると収縮して変形してしまうので、細胞の組織を満たしている水を他の物質で置き換える必要がある。 保存処理剤は、水溶性の高分子化合物ポリエチレングリコールPEGである。展示しながらシャワー方式で薬剤を染みこませている。 

三瓶自然館ヒサメルを見学した後、三瓶温泉の「さんべ荘」に泊った。
ここの露天風呂(天然温泉)は、浴槽が沢山あって、気に入った湯温の槽を独り占めできる



5日目
(10月29日)
三瓶温泉三瓶山石見銀山・大森町(泊)

三瓶山

出雲国風土記に書かれた国引き伝説では、支豆支の御埼(日御岬)を引いたときに綱を結んだところが佐比賣山(三瓶山)で、三穂の埼(美保関)を引いたときに綱を結んだところが火神岳(大山)であるとされている。大山は幾度か登ったことがあるが、三瓶山を登るのは今回が初めてである。

今日のGPS軌跡 (三瓶山周辺のみを示す)

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東の原から眺める太平山(左、854m)と女三瓶山(右、958m)。両山に跨るスキー場は近年は休業している。 北の原の姫逃池登山口から登る。
すぐに標高600mの標識がある。この辺りはカラマツ、スギ、ヒノキの植林地である。

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900mまで登ると次第に広葉樹になり、紅葉が見られる。

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1時間半ほどで山頂に着く。山頂には国引きを行った八束水臣津野命(ヤツカミズオミツヌノミコト)を祀った三瓶山頂神社(といっても自然石の石碑だけ)がある。 三瓶山の最高峰は
男三瓶山(1126m)
 
男三瓶山の一等三角点
 
 

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山頂からは北側に宍道湖と島根半島が見えるはずだが、生憎の天気。
国引きの綱をつないだ佐比賣山(三瓶山)からの展望は叶わなかった。
南側は、鏡のように輝く室内池が、霧の紅葉の中に見えた
 

姫逃池登山口に戻ってから姫逃池を訪ねた。 池の名の由来は、昔々、長者の娘に思う人がいる中、
親が決めた人と婚姻することになり、親に言えない辛さから、この池まで逃れて身を投げたという。

下山する頃には天候がよくなり、西の原から男三瓶山(左)と子三瓶山(右、961m)が望まれた

三瓶山から大田へのバスで、たまたま物部神社の前を通ったが、車窓だけで残念

物部神社(もののべじんじゃ)は石見国一宮、祭神はウマシマジノミコト。ニニギノミコトの天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられるニギハヤヒノミコトの子ウマシマジノミコトは、物部氏の祖といわれている。物部氏は元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、蘇我氏との争いに敗れ没落する。



石見銀山・大森町へ

三瓶山から大田経由で大森町に入った。ここは石見銀山の代官所のあった所である。明日からの石見銀山見学に備えて、街道を散歩する。

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城上神社 祭神は大国主神
 
 
拝殿は重層式の入母屋造。江戸本所の亀井戸天満宮に倣ったもの。寛政12年(1800年)の大火で類焼したが、文化9年(1812年)に再建された。

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本殿
 
 
拝殿内の天井には、再建当時に円隣斉守休によって描かれた鳴き龍があり、拝殿中央に正座して、拍手を打つと、反響して響くという。その通りであった。

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五百羅漢
18世紀中頃、銀山で亡くなった人々の霊を供養するために
25年かかって代官や代官所役人、領内の人々の援助で作られた。
中村ブレイス(株)
多数の義肢装具士を擁し、医療スタッフの一員として義肢装具の
製造を行っている。代表の中村俊郎氏は、石見銀山資料館理事長

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大森の町並み 宿泊した旅館「ひろた屋」は、釜めしの天領茶屋



石見銀山は、なぜ世界文化遺産に登録されたのか
A                      石見銀山の世界文化遺産への登録

石見銀山は、「石見銀山遺跡とその文化的景観」として、2007年6月、世界文化遺産に登録された。世界文化遺産としての
構成資産は次の資産群である。

銀鉱山跡と鉱山町 銀山柵内、代官所跡、矢滝城跡、矢筈城跡、石見城跡、大森銀山重要伝統的建造物群保存地区、
宮ノ前地区、熊谷家住宅、羅漢寺五百羅漢
鉱山と港をつなぐ街道 鞆ケ浦道、温泉津沖泊道
銀を積み出した港と港町 鞆ケ浦、沖泊、
温泉津重要伝統的建造物群保存地区


                          
世界遺産への登録基準

登録基準(i)〜(vi)の1つ以上を満たして登録された物件は文化遺産に、(vii)〜(x)の1つ以上を満たして登録された物件は
自然遺産に、双方の基準それぞれ1つ以上を満たして登録された物件は複合遺産になる。

(i) 人類の創造的才能を表す傑作である。
(ii) 建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
(iii) 現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも稀有な存在)である。
(iv) 歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
(v) あるひとつの文化(または複数の文化)を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である(特に不可逆的な変化によりその存在が危ぶまれているもの)。
(vi) 顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。
(vii) 最上級の自然現象、又は類まれな自然美・美的価値を有する地域を包含する。
(viii) 生命進化の記録や、地形形成における重要な進行中の地質学的過程、あるいは重要な地形学的又は自然地理学的特徴といった、地球の歴史の主要な段階を代表する顕著な見本である。
(ix) 陸上・淡水域・沿岸・海洋の生態系や動植物群集の進化、発展において、重要な進行中の生態学的過程又は生物学的過程を代表する顕著な見本である。
(x) 学術上又は保全上顕著な普遍的価値を有する絶滅の恐れのある種の生息地など、生物多様性の生息域内保全にとって最も重要な自然生息地を包含する。


                         該当する登録基準

石見銀山は、下記の登録基準を満たし、文化遺産に登録された。

(ii) 建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
(iii) 現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも稀有な存在)である。
(v) あるひとつの文化(または複数の文化)を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である(特に不可逆的な変化によりその存在が危ぶまれているもの)。


                          登録までの経緯

日本政府は「東西文明交流に影響を与え、自然と調和した文化的景観を形作っている、世界に類を見ない鉱山である」として、「石見銀山遺跡とその文化的景観」の世界遺産登録を目指し、2006年1月にユネスコ世界遺産委員会に推薦書を提出した。

2007年5月、各国から推薦された世界遺産登録候補を審査するユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(ICOMOS)が、遺跡の「顕著な普遍的価値」の証明が不十分であることを理由に「石見銀山は登録延期が適当」と勧告した。それを受け、日本政府や地元は「世界遺産への登録は極めて厳しい」と判断したが、ユネスコの日本政府代表部は、委員会構成国の大使や専門家に、勧告に反論する110ページにわたる英文の「補足情報」を送るなどして、石見銀山の特徴である「山を崩したり森林を伐採したりせず、狭い坑道を掘り進んで採掘するという、環境に配慮した生産方式」を積極的に紹介し、巻き返しのための外交活動を展開した。

結果、「21世紀が必要としている環境への配慮」がすでにこの場所で行われていたことが委員の反響を呼び、6月28日、世界遺産委員会の審議により、世界文化遺産としての登録が満場一致で決定された。
石見銀山の登録に向けて日本側の代表として外交活動を率いた、近藤誠一ユネスコ大使は、2007年9月8日に、島根県大田市で開かれたシンポジウムの中で、銀山周辺に残る自然が逆転登録の決め手になったことを明かしている。近藤大使はICOMOSによる登録延期勧告を受け、各国の政府代表などに対し、石見銀山が伐採した分だけ植林していたことなど、自然に対する配慮の歴史を積極的に説明したところ、政府代表らの反応が良く強い手ごたえを感じたという。


                             
世界遺産としての期待(私見)

世界遺産としての価値を疑う訳ではないが、現在の遺跡現場及び世界遺産センターでの展示・管理には不満があると
云わざるを得ない。 例えば、

〇 逆転登録の決め手となった「環境に配慮した鉱山」についての具体的な展示・説明が必要ではないだろうか。
〇 歴史的背景、例えば、毛利氏・大内氏・尼子氏の石見銀山を巡る戦いや、江戸時代の幕府の銀山経営などのもっと
  詳しい解説があればいいのではないか。
〇 鉱山技術、例えば、灰吹法や素吹法について、もっと分りやすく詳しい説明が必要ではないだろうか。
〇 世界遺産センターの見学者を締め出して、式典をするようなことは避けて欲しい。チョット工夫すれば見学と式典は
  両立するのだから。

世界遺産登録5周年を経た石見銀山が、日本の国民や、世界の市民にとって喜ばれる世界遺産になることを期待したい。
 




6日目
(10月30日)
大森町龍源寺間歩仙ノ山大森の町並み温泉津温泉(泊)

いよいよ今日から石見銀山の見学。3日間石見銀山ガイドの会に案内して頂く。1日目の今日は、山根幸文さんの案内で、銀山公園から街道を歩いて龍源寺間歩へ行き、坑道を抜けて、仙ノ山を登り、清水谷製錬所跡を見て下山し、大森の街道を散策し、最後に代官所跡の石見銀山資料館を見学する予定である。

龍源寺間歩

大森町から龍源寺間歩へ

銀山公園にある大きな石見銀山大森地区の立体模型
文字が小さくて見えないので、主要な訪問地を写真の上に記入した。

ここから先が鉱山地区に入るので、ここに番所が置かれた。これより内を柵内という。
両側に山が迫っており、ここから左右の尾根を囲むように柵が設けられていたという。

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下河原吹屋跡(製練所跡)に置かれたタイル説明板 鉱床や製錬方法などが詳しく書かれている。 案内の山根幸文さん
 
要石(かなめいし)の上に銀鉱石を載せて金槌で砕く、最初の製錬工程である。

タイル板に書かれた鉱床の説明

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銀山川の水は魚が沢山住めるほど、きれいである。これは銅山との違い。

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               清水寺(せいすいじ)
徳川家康公から頂いた辻ヶ花染丁字文胴服(国の重要文化財)を所有している。
                  福神山間歩
間歩とは坑道のこと、天保5年(1844年)には間歩は23箇所あった。坑口と坑口の間は一定距離だけ離すことが定められていた。

辻ヶ花染丁字文胴服は、備中出身の山師 安原伝兵衛が徳川家康公から頂いた胴服(どうぶく)。慶長7年(1602年)安原伝兵衛は、近年銀の採掘量が減り続けたことにより、清水寺に祈願したところ、「銀の釜」を賜る夢を見た。その夢を大久保石見守に申し上げ、資金を得て釜屋間歩を発見し、大量に銀を採掘した。慶長8年(1603年)徳川幕府に多額の運上金を納めたことから、伏見において家康公からこの胴服と扇子を与えられたという。

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銀山町年寄山組頭の旧宅 山組頭は鉱山の取締役で、
鉱夫の人事や物資の購入などを担当していた。
高橋家の敷石に設けられた牛馬留め
 



龍源寺間歩

龍源寺間歩は公開されている坑道の1つ。古い坑道を見学用に安全上の整備をしただけである。佐渡金山にように古い坑道に人形を配置したり、近代的な坑道にトロッコや掘削機械を残したりしていない。見学コースとしては極めて地味である。

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間歩の見学には入場料を払う
間歩の入口
材木が新し過ぎるのは、何とかならないものか
現地の間歩の説明板  入口から入るが、見学できるのは途中までで、
そこで左折して、見学者用の直線路で出口に向かう。混雑を避けるため一方通行。

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間歩の中は、当時の鏨(たがね)の跡が残っている。
床は元々凹凸があったが、車椅子で入れるように舗装した。
銀鉱脈の幅は僅か2〜3cm、
それを求めて掘り進む。
ゆっくり見学しても
30分ほどで出口に着く。



仙ノ山

龍源寺間歩を出て、仙ノ山を登り、中世の製錬所と明治時代の製錬所跡を見て、街道に下山する。

佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)

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15世紀中頃創建の鉱山の守り神、製錬の神「金山彦命」を祀る
現在の建物は文政2年(1819年)の再建
拝殿の重層屋根は天領の神社である格式を示しているという。
神社は、世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の一部である。

佐毘売山(さひめやま)とは、三瓶山の古名。神亀3年(726年)に朝廷の命令で、三瓶山に改名させられたとされる。三瓶山は、古代出雲や物部氏に関係が深い山とされている。佐比売山という漢字を使う神社も含めて、「さひめやま」と称する神社は大田市周辺に7社、益田市に1社ある。佐毘売山神社は、周防の戦国武将として勢力を誇った大内氏が1434年に建立したと伝えられる。鉱山を祀る「山神宮」の中では国内最大級の社殿を誇り、石見銀山の隆盛を物語るものである。



仙ノ山に登る

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険しい山道を登りつめると、広場のある仙ノ山の山頂(538m)付近にでる

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広場には、山頂付近にもかかわらず、池や井戸がある。
山頂の南東、標高470mのテラスは石銀(いしがね)千畳敷といわれ、
幅約2mの道の両側に建物の礎石が発見され、銀製錬所の跡であることが分ったという。

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山頂から北へ下ると、陶器を砕いて舗装した道に出る。陶器片は石州甕を砕いたもので、エコ(昔の言葉で廃物利用)になるようだ。 見晴らしのよいところに出ると、四等三角点があった。
三角点は国土地理院の地形図にはなく、最近出来たものらしい。

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三角点の付近から、山吹城址のある要害山が見えた 大森の町並みも俯瞰された



清水寺第二寺跡

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舗装道から再び山道に入る 清水寺第二寺跡に出る。昔ここにあった清水寺は今は下に降りている。



清水谷精練所跡

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足元には不良銀鉱石がゴロゴロ 清水寺跡に設けられた選鉱所で選鉱された鉱石が、シュートで下の製錬所に運ばれた

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シュート跡に沿って下る途中で見た駒沢坑

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シュート跡に沿って設けられた見学用の階段 ここから下部に製錬所が建設された

製錬所跡を下から見上げる

現地の説明板  製錬所は、明治27年(1894年)に藤田組によって当時の20万円(現在の数10億円に相当)をかけて建設された。
しかし、鉱石の品質が予想よりも悪く、製錬所の能力も十分でなかったことから不採算となり、操業開始から1年半で操業停止。

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製錬所から下山し振り返ると、仙ノ山が見えた
 
この辺りには梅林が多い。江戸時代の鉱夫は、空気を浄化するため、「梅干し入りのマスク」をしていた。その梅を採るためだろうか。



豊榮神社

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戦国大名・毛利元就を祭神とする神社。慶応2年(1866年)、大森に進撃した長州軍が
元就の木像が祀られていることに感激し、荒廃していた境内を整備した。
 

大森に駐屯した長州の隊士名が、灯篭や鳥居に刻まれていて、大森に進撃した長州軍の面影をとどめ、激動の幕末の遺跡として興味深い。




西本寺とアーチ橋

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寛永8年創立。門前には山吹城城門西本寺と書かれている。
山吹城とは要害山山頂にあった城のこと。
銀山川に架かるアーチ橋(凝灰岩切石造)。昭和18年の水害では
この橋を除く多くの橋が流され、造りの確かさは歴史が証明済。

山吹城は、天文2年(1533年)大内義興が大森の銀山を守るために築城したもので、その後、尼子常久の銀山攻略で尼子氏の領有となり、さらに永禄5年(1562年)には毛利元就が攻め込んで毛利氏の手に落ちた。山吹城解体後、四門のうち追手門が龍昌寺の門として改造され、後に西本寺に移転され今日に至るという。



大森町の町並み

仙ノ山の鉱山地区を見学した後、ガイドの案内で大森の町並みを散策した。

世界遺産に登録される前から古い町並みは保存されていたという。



銅工芸の店

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先代の作品
街道に誇らしげに建つ銅工芸の店
 
ご主人は先代が作ったカンテラを見ながら、
毎日店頭で自分の作品を製作し、販売している。
ご本人の作品
 

近代以前の日本が達成してきた2つの技術、第1の技術は、金属を地球から取り出す、採鉱、製・精錬といった鉱山の技術。典型は先ごろユネスコの世界遺産に登録された近世の石見銀山などに見られる。そして、金属を加工して精巧な工芸品や貨幣(小判など)をつくり上げるのが第2の技術。彫金や鍛金をはじめとして、職人の腕の冴えの見せ所である。 村上 隆 岩波新書「金・銀・銅の日本史」より



栄泉寺と旧河島家

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栄泉寺。井戸平左衛門がこの寺で、「さつま芋」のことを旅の僧から聞き、『お芋発祥の寺』といわれる。1853年に建立された山門は竜宮門形式で、日光(徳川家光の廟所)に似ていることから、代官に取り壊しの命が出たが、幕末を乗り切ったと伝えられている。 旧河島家は、1800年初頭に建築された代官所地役人の遺宅。代官所地役人は、代々大森に居住して銀山の経営や領内の支配に当っていた。寛政12年(1800年)の大森町の大火後に再建され、上級武家の構えをよく伝えており、大田市指定史跡となっている。

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座敷(奥の間)  大森代官が来たときはここに通されたのであろう 奥の間の前の庭

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当時の食事のサンプル
 
鎧・兜・槍・鉄砲 地役人は在地の武士、中央から派遣された代官に頭を下げるのは辛かったであろう。



旧裁判所

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旧大森区裁判所は明治23年(1890年)に開所した。現在は町並み交流センターとして再利用されている。



郵便局と青山家

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現役の郵便局
 
 
 
青山家 江戸時代に石見銀山の領内の村々と代官所の間を公的に取り持つ「郷宿(ごうやど)」。漆喰塗込めの外壁で大森では唯一の妻入り形式の店構えである。(県指定の史跡、非公開)
           前の道路が狭いため異なる角度から撮った写真を合成した



大森代官所跡 (石見銀山資料館)

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幕府の直轄地だった銀山を治めるための代官所の跡。白壁の長屋門は1815年(文化12)の建築。
内部は、銀山の歴史を伝える資料を展示した石見銀山資料館となっている。有料、内部は撮影禁止



ガイドの会事務所

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銀山公園にある石見銀山ガイドの会の事務所
平成12年地元の有志によって結成され、現在では会員50名余。当初、無償のボランティアガイド
として活動してきたが、平成18年、有償化。今回の旅では3日間3人のガイドにお世話になった。



石見銀山の歴史
A                           石見銀山の発見

石見銀山の発見については鎌倉時代末期の延慶2年(1309年)に周防の大内弘幸が石見に来訪して北斗妙見大菩薩(北極星)のお告げにより銀を発見したという伝説が残されている。
その後、本格的に開発したのは博多の商人・神谷寿貞であるとされている。海上から山が光るのを見た神谷は領主大内義興の支援と出雲国田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力を得て大永6年(1526年)、銀峯山(仙ノ山)の中腹で地下の銀を掘り出した。義興の死後、享禄3年(1530年)に、地方領主・小笠原長隆が大内義隆から銀山を奪い、3年後に大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。天文2年(1533年)、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功した。この技術でより効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。灰吹法確立以前は、鞆ヶ浦・沖泊から鉱石のまま積み出され取引された。


                         戦国時代の銀山争奪戦

天文6年(1537年)、出雲の尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に尼子氏が石見小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。大内義隆の死後は、毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げ、弘治2年(1556年)忍原崩れ、永禄2年(1559年)降露坂の戦い、永禄4年(1561年)〜永禄5年(1562年)の雲芸和議を経て最終的に毛利氏が勝利を収めて石見銀山を完全に手中に収めた。そして、山吹城には吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門が置かれた。同年12月には石見銀山を朝廷の御料所として献呈する。その後、天正12年(1584年)に毛利氏が豊臣秀吉に服属することになると、銀山は豊臣秀吉の上使である近実若狭守と毛利氏の代官である三井善兵衛の共同管理となり、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられた。天正19年( 1591年)、毛利輝元は豊臣秀吉の命により石見銀山を始めとする領国の銀山を治めるため林就長および柳沢元政を奉行に任命した。慶長2年(1597年)には輝元より秀吉に銀3000枚(129貫、約480kg)が運上されている。

                          江戸幕府による支配

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は慶長5年(1600年)に石見銀山を幕府直轄領(天領)とし、翌慶長6年(1601年)に初代銀山奉行として大久保長安を任命した。銀山開発の費用・資材(燃料など)を賄うため、周辺の郷村には直轄領である石見銀山領(約5万石)が設置された。大久保長安は山吹城の下屋敷のあった吉迫の陣屋で支配を行ったが、後任の竹村丹後守により大森に奉行所が置かれた。
大久保長安は山師(鉱山経営者)安原伝兵衛らを使って石見銀山開発を急速に進め、家康に莫大な銀を納め朱印船貿易の元手にもなった。慶長7年(1602年)に安原伝兵衛が釜屋間歩を発見して産出された銀を家康に献上すると、家康は非常に喜び、安原伝兵衛に「備中」の名と身につけていた辻ヶ花染胴服を与えた。
安原伝兵衛の釜屋間歩の発見などにより17世紀初頭(慶長年間から寛永年間)に銀の産出はピークに達したが、その後、銀産出量は次第に減少し、延宝3年(1675年)に大森奉行所は大森代官所に格下げされた。

当初、産出した灰吹銀は現大田市の鞆ヶ浦や沖泊から船で搬出されていた。冬の日本海は季節風が強く航行に支障が多いため、大久保長安は大森から尾道まで中国山地を越え瀬戸内海へ至る陸路の「銀山街道」を整備した。
石見銀山は江戸時代前期にも日本の膨大な銀需要を支えたが、元禄期になると次第に産出量が少なくなり、江戸末期には深く掘らなければ銀を産出できなくなり地下水にも悩まされ採算がとれなくなっていった。
慶応2年(1866年)の第二次長州戦争において、幕府は長州軍の進出を食い止めることができず、最後の大森代官・鍋田三郎右衛門成憲は備中国倉敷へと逃亡し、石見銀山の幕府支配は終焉を迎えた。


                        明治期以降の石見銀山と終末

石見銀山は1867年(明治元年)の太政官布告による民間払い下げ後、明治19年(1887年)からは大阪の藤田組(後に同和鉱業から現在はDOWAホールディングス)は、明治27年(1894年)に当時の20万円(現在の数10億円に相当)をかけて製錬所を建設した。しかし、鉱石の品質が予想よりも悪く、製錬所の能力も十分でなかったことから不採算となり、操業開始から1年半で操業停止し、閉山した。現在鉱業権はDOWAホールディングスが保有している。
                                                                     Wikipediaなどを参考にしてまとめた




銀の製錬法
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1.鉱石から選鉱する (比重選鉱)
  掘り出した鉱石には、銀を含む部分とそれ以外の部分(素石)があるので、要石という石の作業台に置いて「かなづち」で
  砕いて不要の素石を除く。
  次に、細かく砕かれた鉱石を「ゆり盆」という盆に入れ、水の中でゆっくりと揺する。この作業は比重選鉱で、銀を含んだ
  鉱石(正味鏈、しょうみくさり)は、比重が大きいので盆の底に沈む。
  比重選鉱

2.正味鏈から貴鉛(銀と鉛の合金)を作る (素吹)
  正味鏈には、銀以外の不要な鉱物が含まれるので、ここから銀を取り出す作業が必要である。炉の中に、正味鏈、鉛を
  含む鉱石、
炭に入れ火を着け、フイゴで風を送り温度を上げ熔かす。鉛は銀と結びつきやすい性質があるので、鉛と銀の
  合金(貴鉛)ができ、炉の底に沈む。炉の表面に浮かんだ他の鉱物を、鉄製の道具でかきだすと、最終的に貴鉛が残る。
  

3.貴鉛から銀と鉛を分離する (灰吹)
  貴鉛から銀と鉛を分離する方法を灰吹法という。貴鉛を「灰吹床」で加熱して熔かし、フイゴで空気を送り込むと、鉛は
  酸化して酸化鉛になるが、酸化鉛は灰にしみ込みやすい性質があるので、灰に吸収され、銀が炉の上に残る。このように
  してできた銀を灰吹銀という。


  灰吹

4.灰吹銀の純度を高める (清吹)
  幕府に収める銀は純度が指定されていたので、灰吹までの工程でできた銀は清吹で純度を高めた後、代官所へ納め
  られた。
清吹の作業は、灰吹の作業を繰り返すことのようである。


銀の製錬法は灰吹き法の他に、水銀との合金を作って製錬する方法(水銀アマルガム法)がある。
現代は、銅の電解精錬の副産物や都市鉱山(携帯電話などの電子機器から金属を回収することをそう呼んでいる)など
から、電気精錬で得ているという。
                                   しまねバーチャルミュージアム石見銀山、Wikipediaなどのホームページを参考にしてまとめた
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温泉津温泉・長命館

銀山公園でガイドと別れた後、乗合タクシーで、今日から2泊する温泉津(ゆのつ)温泉の長命館へ向かった。

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長命館は、温泉津温泉元湯温泉「泉薬湯」の正面に建つ元湯直営旅館。その歴史は古く、木造3階建ての施設は築100年。

落ち着いた明治大正の雰囲気と、存在感のある木造の螺旋階段。柱は全て3階までの通し柱。

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約1300年の歴史を持つ元湯は、湯治場としての温泉津を世に広めた由緒ある温泉で、
毛利家の家来だったと伝えられる伊藤家(長命館の主人)が、代々管理・運営している。
宿の前の泉薬湯は歴史が古く、天和3年(1683年)には大森代官が湯治入浴している。湯温は47℃と高く、相当の覚悟が必要。

今日のGPS軌跡 (銀山公園から代官所跡の範囲のみを示す)



7日目
(10月31日)
温泉津温泉石見銀山世界遺産センタ板根口降路坂よずくの里沖泊温泉津温泉(泊)

今日は、ガイドの会の勝部昌正さんの案内で、石見銀山世界遺産センターで落ち合って、車で出発点の銀山公園から歩き始め、峠を越え、銀の積み出し港のあった沖泊まで銀山街道を一日かけて歩く。往時に銀を積んだ馬車や牛車とともに交易の人達が鉱山から積み出し港まで歩いたのを追体験しようという訳である。

世界遺産センターから降路坂へ

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温泉津から乗合タクシーで石見銀山世界遺産センターまで来る
世界遺産センターでは、たまたま台湾の鉱山展の開会式に出くわし、入館を待たされる。常設展示ブースは空いているのだから開会式と並行して来館者を入れればいいのに。やっと展示ブースに入ると撮影禁止。ここは美術品など何もないのになぜ撮影禁止にするのだろうか。外国では美術館でも博物館でも撮影禁止の所はほとんどない。ルーブル美術館ではでは画学生が許可を得ても模写をしているくらいだ。日本の美術館・博物館はろくに見せるものがないから撮影禁止にしているのかもしれない。

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銀山公園をスタートして。昨日見学した龍源寺間歩の入口を通過する。 これが銀山街道大森側の最後の住居のある坂根口

坂根口にあった説明板
 ここまでが鉱山の範囲で銀山柵内といわれる。ここには板根口番所があった。

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大森代官所跡から沖泊まで14.1km 7体あるのになぜか六地蔵  首がないのは明治維新の廃仏毀釈で壊されたから  

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銀山川を遡る狭い古道を、ガイドの勝部昌正さんはどんどん歩く 杉の植林地のようである

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急坂を登ると峠に出る 峠から仙ノ山が見える 遠くに見えるのが石見城の竜嵓山?

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峠には1940年代までは茶屋があったという。
ここでおやつを食べて、長い後半の道のりに備える。

  
大森側から峠を越えて西田側に出ると降路坂(降露坂)がある。
逆に港のある沖泊から来れば、降路坂はきつい登り坂である。
峠(GPSによると標高425m)を境に、銀山川から五老川に変わる。
ここは毛利軍と尼子軍の古戦場である。



降路坂から沖泊へ

銀山街道の難所「降路坂」を下ると、西田集落、清水集落を通って沖泊に向かう。しかし路は決して平坦ではなく、途中に堂床山の登りもあり、往時の人達の苦労が偲ばれる。

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降路坂の下り道は、昔は五老川の左岸(向う側)にあったが、
幾たびかの洪水のため川が埋まり、今は右岸に付いている。
左岸の旧道跡に「妙法蓮華経?」刻まれた道しるべが見える。
毛利軍と尼子軍を弔ったものではないだろうか。

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ここまで来ると、大森代官所跡から沖泊のほぼ中間点である。五老川の写真は撮ったが、橋の写真は撮りそこなった。

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峠を越えてから初めての民家が見えて、ホッとする この山の中に毛利の身代わりになった武士の墓があるという

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西田の古い町並みが現れた。ここは石見銀山と温泉津を結ぶ街道のほぼ真ん中に位置する。戦国時代に軍兵を相手に商売をする人々が作った町で、その後、街道沿いの宿場町として栄えた。今も上市、中市、下市という地名が残っている。 集落の中にある新聞の集中配達所には、苗字の代りに屋号が使われている。
 
 

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洒落た建物「コミュニティよずくの里」の庭先で弁当を食べる。
ここは「温泉津町女性・若者等活動促進施設」と名付けられている。
ここにはよずくはでが1基、観光用に造ってあった。
温泉津町西田地区特有のものだが、出雲地方でも見かけた。

よずくとは、この地方の方言で、ミミズクのことをいう。稲束を架けて干すためのものだが、全体の形が、耳に似た羽角(うかく)をもつミミズクが、木に止まって少し羽を開いている姿に似ていることから名付けられたそうだ。この形のものは全国的にも珍しく、現在コンバインと、乾燥機に依存する時代に、天日干しの良さと観光目的で造られる。温泉津町西田地区にしか見られない形だという。この形のメリットは、木材が三角構造に組まれ、横の力に強いことです。またこの地に吹く強い谷風に対し、平面的に架ける「平はで」とは違って、360度どの方向に対しても風を通す構造になっていることである。高さは5〜6mある。大田市の有形民俗文化財に指定されている。 いくつかのWebsiteより

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瑞泉寺は1300年頃の開基といわれている。歴代住職の中では自謙和尚(1751〜1846年)は、吉野葛の精製技術を伝え、西田の晒葛は特産品になったという。 山頂に矢滝城のある矢滝城山が見えた
 
 

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大きな石の石畳の道を登る。実はここは山津波の爪痕。 ここを通う馬子は、この石で将棋盤を作ったという。

山津波は、戦国時代後期、天文8年(1539年)8月の豪雨時、堂床山(標高365m)で生じた。銀山街道が、堂床山の北側中腹を通っている。山容を変えるほどの大崩落により、銀山街道は通行不能になったに違いない。世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の広大な遺跡の中で、清水地区の風景は、先人が災害をたくましく乗り越え、自然と共生しながら暮らしを営んできた歴史を今に伝える。 山陰中央新報より要約

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清水集落に、岩と民家の石垣に囲まれて清水が湧き出る泉があり、「清水の金柄杓(かなびしゃく)」と呼ばれる。泉の水の美味しさに感動した大森の代官が、当時としては高価だった金属製の柄杓を奉納したことから名がついたと伝えられている。

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矢筈城(左)と矢滝城(右)
 
石見城、山吹城、矢滝城、矢筈城の4城は世界遺産地域に入っている
                      Fukutomi design office websiteより引用



沖泊周辺

14kmに及ぶ銀山街道も終点の沖泊に近付くと、「やきものの里」などが現れ、風物が少し変化してくる。沖泊の港を含めて世界文化遺産である。

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JR山陰線の上を山越えすると、コンクリート舗装の産業道路に出る。世界遺産の街道歩きをしていてなんとも無粋だが、
世界遺産に申請する前に造った産業道路だから仕方がないのか。道路脇の崖を見ると粘土が露出している。
陶器に使える土だそうだ。この辺りは「やきものの里」といわれ、日本一の大きな登り窯がある。明日は見学予定だ。

沖泊の港を見守るように立つ恵比須神社は、事代主命(大国主命)を祀る神社である。社伝によると、銀山発見と同じ大永6年(1526年)、筑前国芦屋浦の住人の神託によって建立されたと伝えられている。文禄元年(1592年)、暴風で湾内の多くの船が被害を受けた時、この社に祈るとたちまち海が静まり、人々は喜んで臨時の祭りを行ったといわれている。

やっと着いた沖泊の港  往時はここから銀は江戸へ、中国へ、ポルトガルへ積み出された。
銀山で必要な米や生活物資は、ここから銀山街道を通って大森に運ばれた。生憎の雨が降ってきた。

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沖泊の鼻ぐり岩
沖泊の両岸の岩場には、数多くの「鼻ぐり岩」が現存している。船を係留する綱を通すために丸い穴を開けた岩で、
牛の鼻ぐりに似ていることから付いた名である。鼻ぐり岩の周辺には、岬を巡るように細い道が残っており、
この道を伝って船から港へと荷物を運んだ様子を思い浮かべることができる。

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岩盤に円柱状の突起部をつくりだしたものもある 現在の係船柱(けいせんちゅう)

沖泊で今日の街道歩きが終了し、ガイドと別れ、温泉津温泉の長命館に戻った

今日のGPS軌跡 (世界遺産センターから温泉津温泉の範囲を示す)
 
地図をクリックしてお待ち下さい。 新しいウインドウで表示された地図を、もう一度クリックすると拡大されます。




8日目
(11月1日)
   泉津温泉やきものの里温泉津温泉元湯恵珖寺龍御前神社内籐家庄屋屋敷
   →
愛宕神社温泉津漁港JR温泉津米子空港

温泉津温泉の名所めぐり

やきものの里

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ガイドの会の寺本功子さんの案内で、先ず、温泉津焼の「やきものの里」にある大きな登り窯へ。はんどと呼ばれる水がめを生産していた。

温泉津焼は江戸時代、宝永年間(1704-1708)に3窯が開かれた。その後、石見焼江津地区の職人により技術改良が加えられ、幕末から明治にかけて数多く生産された。

石見銀山の銀の積み出し・交易港としても栄えた温泉津港はリアス式海岸。大型船舶の寄港可能な天然の良港で、
はんどと呼ばれる水がめに代表される温泉津焼がここから全国へ積み出された。港に隣接した松山地区は急傾斜が多く、登り窯を設けるのに適し、付近からは耐火度の高い良質な陶土、釉薬が産出され、さらに焼成に必要な松樹も多く存在し、やきものには最適の土地であった。

プラスティック製品の普及により、陶器の需要は衰え、水道の整備などにより温泉津焼を代表する「はんど」の生産も下火になっていった。現在では、椿窯、(有)椿窯、森山窯の3窯が温泉津焼の伝統に民芸の風を吹き込んだ作品を作っている

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窯元の1つ「椿窯」に立ち寄って、お土産の湯飲み茶椀を買う 「窯元通り」と呼ばれる古い道



温泉津温泉湯元

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宿泊した長命館にのすぐ前の薬師堂 薬師堂の隣に源泉がある ローカルな有名人浅原才市の銅像

浅原才市(あさはら さいち、嘉永3年(1850年)- 昭和7年(1932年)は、浄土真宗の妙好人のひとり。妙好人(みょうこうにん)とは、浄土真宗の在俗の篤信者を指す語である。浅原才市は石見国大浜村字小浜(現島根県大田市温泉津町小浜)に生まれ、晩年は下駄職人として過ごした。その仕事の合い間に、「口あい(くちあい)」と称せられる、信仰を詠んだ自作詩、約10,000首もの数を、かんな屑に書き綴っていた。才市を妙好人として取り上げたのは、哲学者の鈴木大拙である。



恵珖寺

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1587年(天正15年)には戦国武将細川幽斎が、豊臣秀吉の九州遠征の陣中見舞いの途中にここに立ち寄り、
地元の町衆と百歌連歌の会を催したという。

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初代石見奉行大久保長安の逆修墓?
(生前に、あらかじめ自分のために立てた墓)
 
本堂裏手にある廟式墓地(多くの墓標が一つの屋根の下に並ぶ)
廟式墓地は中国や沖縄など南方系の風俗から伝わったとされ、
ここが、北前船を介して全国各地と交易があったことを伺わせる。



龍御前神社

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龍御前神社は天文元年(1532年)の創建と伝えられ、海上安全、漁業・温泉医療の守護神として、大国主命を始めとする8神が祀られている。本殿は龍の形をした巨岩の下にあり、もともとはこの巨岩自体が磐座=神の降臨する場所として崇拝されたと考えられる。 本殿から、温泉津の町並み漁港が展望できる
 
 



内籐家庄屋屋敷

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内籐家庄屋屋敷
延享4年(1747年)の温泉津大火直後に再建されたもの
かつてはこの堀にも小さな船が入ったという

内藤家は毛利水軍の御三家の一家で、元亀元年(1570年)に毛利元就の命でこの地に配された。温泉津港は石見銀山で産出される銀の積出港の1つで、軍事的にも重要拠点だったため、鵜丸城を築きこの地を守らせた。慶長5年(1600年)の関が原の戦いで毛利氏は西軍につき大きく領土を削られた際、内藤家はこの地に土着し、廻船問屋や酒造業を手懸ける豪商として大きな影響力を保ち、庄屋や年寄などの要職を歴任した。



愛宕神社

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温泉津の町を見下ろして建つ愛宕神社は、火伏せの神を祀る神社である。
梵鐘は、隠岐郡海士町勝田山源福寺の鐘であったが、豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して供出され、
返還のときに間違って温泉津に運ばれたと伝えられている。
石見銀山初代奉行大久保長安
逆修塔(生前に建立した墓)がある
 

大久保長安は、戦国時代の武将。武田氏、次いで徳川氏の家臣。後に江戸幕府勘定奉行、老中となった。

                              武田家臣時代
父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったという。長安は信玄に見出されて、猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。信玄没後は武田勝頼に仕えた。天正10年(1582年)、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻によって、甲斐武田氏は滅亡する。

                              徳川家臣時代
甲斐武田家が滅んだ後、長安は家康の家臣として仕えるようになる。家康が甲州征伐の時に逗留するための仮館を長安が建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。長安は大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。それに伴い、姓を大久保に改めた。天正10年6月、本能寺の変で信長が死去して甲斐が家康の領地となる。長安は釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐国の内政を再建したと言われている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月に大和代官、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役、慶長6年(1601年)春に甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官に任じられた。
7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安は家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任されていたのである。

しかし晩年に入ると、全国鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官をはじめとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さらに正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日、卒中のために死去した。享年69。

                                 死後
長安の死後、生前に長安が金山の統轄権を隠れ蓑に不正蓄財をしていたという理由で、長安の7人の男児は全員処刑され、縁戚関係にあった諸大名も連座処分の憂き目にあった。

                               人物・逸話
? まったくの外様(30歳近くまで徳川家と関わりがなかった)で老中に就いた唯一の人物であり、
  その謎めいた生涯は多くのフィクションの対象となっている。
? 無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。
                                                                Wikipediaを参考にした



温泉津港

温泉津港

温泉津港が石見銀山で消費される諸物資の水揚げ港、積み出し港として重きをなしたのは、江戸時代前半までのことである。石見銀山で産出される銀の輸送は、慶長10年(1605年)頃を境に、陸路を尾道まで運び、瀬戸内海経由で大坂銀座へと搬出する方法に移り変わっていく。

その後の、温泉津港はいったん重要度が薄れたが、寛文12年(1672年)、幕府の命を受けた河村瑞賢が西廻り航路を開くと、北前船の寄港地として賑わいをとりもどした。また、天和年間(168184年)からは銀山領55ヵ村の年貢米の積出港として重要な役割を担っていく。さらに、19世紀半ば以降、温泉津で生産される焼き物(日常雑器)の積出港としての性格を加え、港町は繁栄を続ける。

一方、温泉津の北方には、古い時代、石見銀山の銀の積出港であった沖泊・鞆ヶ浦がある。この二集落は、平成17年に国指定史跡になった。

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安楽寺は、浅原才市にゆかりの深い寺院で、句碑や遺品が保存されている 安楽寺境内から、昨日通った(道)床山が見えた 安楽寺付近で見た鏝絵(こてえ)
 

鏝絵(こてえ)は、壁塗りが本業の左官職人が、仕事のお礼で描いたり、寺社に奉納したりしたもので、漆喰装飾の一技法である。作品は日本全国、山陰地方どこにでもあるが、石見地方の鏝絵は質、量ともに群を抜いているという。作品の中には国会議事堂や最高裁判所、帝国ホテルといった日本の近代建築に残るものもある。今残っている鏝絵の多くに、左官の熱い思いやメッセージが感じられる。



温泉津温泉から米子空港へ

JR温泉津駅

温泉津の町の散策を終えて、ガイドと別れ、JR温泉津駅から帰路に着いた。

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温泉津温泉駅の待合室の床が福光石で、駅前に説明板があった。
福光石は一種の凝灰岩で、石見地方で墓石などの石造物に広く使われている石材である。



山陰海岸自然エネルギー考

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山陰地方にも太陽電池パネルを備えた民家が結構多かった 多くはないが、風力発電施設も見かけた
 
山陰線の車窓から日本海の荒海(これも自然エネルギー)を眺め、米子空港に着いた

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                      ちょっと異質な話ですが・・・


山陰地方というと、何となく日蔭の地方を想像するが、総務省統計局の日本統計年鑑によると、
年間日照時間(1973年〜2000年の平均)は、山陰の松江市と山陽の岡山市でそんなに違わない。

                             松江市       岡山市
年間日照時間                    1,730 時間     2,010 時間

また、国土交通省港湾局の風力発電港湾風況マップ(2004年)によると、山陰の浜田港は、
山陽の岡山港よりもはるかに風力発電に適している。
                              浜田港       岡山港
平均風速                         6.1 m/s       4.4 m/s
定格1MWの風車の年間発電量          2,405 MWH    1,196 MWH

古代には、日本の玄関口で先進国だった出雲・石見の山陰地方は、これからも自然エネルギー的には、
日本を発展をさせる潜在力を持っているといえだろう。

 
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今日のGPS軌跡 (温泉津温泉の名所めぐりをして、帰路へ)



以前から訪ねたいと思っていた出雲国と石見国を巡る旅を、やっと実現できた。今年が古事記編纂1300年であることが、私を後押ししてくれた。古事記も、日本書紀も、出雲国風土記も、ろくに勉強していない私が、ともかくも古代出雲の世界に遊べたのは、多くの解説書を書いて下さった先人達のお蔭である。

世界文化遺産の石見銀山の訪問は、登録5年目にしてやっと果たせた。 間歩(坑道)の跡、街道の町並み、銀の積み出し港までの峠道などをザットとひと通り歩き、往時の状況を想像することが出来た。ガイドの会の皆さんにお礼申し上げたい。

浅学非才の身を顧みず、長々と記したことは恥ずかしい限りであるが、最後までご覧下さった皆さんにお礼申し上げる次第です。



出雲国と石見国(2)は、三瓶山埋没林公園、三瓶山、石見銀山の鉱山・町並み・銀山街道でした。
              いかがでしたか。
出雲国と石見国(1)は、美保が関、出雲大社、古代出雲歴史博物館、日御岬、スサノオの伝説地の旅です。
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