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インド(1) --- ムンバイ、エレファンタ島、オーランガバード、エローラとアジャンタの石窟寺院、
         ビンベトカ岩陰遺跡
、サーンチーの仏教遺跡など



 インドほど興味の尽きない国はない。

 世界の観光地人気NO.1のマチュピチュを有するペルーと聞いて頭に浮かぶのは、マチュピチュ、ナスカ地上絵、チチカカ湖、クスコの歴史地区、アンデス文明、日系のフジモリ元大統領くらいであろうか。比較する方が無理だが、インドといえば、タージ・マハル、エローラなどの石窟群、ガンジス川の沐浴、ヒンドゥー寺院とミトゥナ像、仏教遺跡などの観光地のほか、インド哲学とゼロの発見、インダス文明、カースト制度、ヒンドゥー教、イギリスの支配とガンディーの無抵抗主義、世界第2の人口、世界で6番目の核保有国、月周回探査機とアジアで最初の火星周回探査機など、枚挙にいとまがない。インドは確かに大国である。貧民窟と隣り合わせの技術大国には目を離せない。

 歴史を紐解けば、前26世紀頃からのインダス文明、前15世紀頃のインド・アーリア人によるカースト制度の実施、前5世紀のジャイナ教、前4世紀の仏教の発祥、前4世紀のアレクサンドロス大王のインド遠征、4世紀のヒンドゥー教の発展、5世紀頃からの仏教の衰退、12世紀~19世紀におけるイスラム教の支配、17世紀~1947年のイギリスの支配などが浮び上る。文化・宗教の点からもインドは興味深い。

 インドは地理的には、パキスタン、中国、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマーと国境を接し、未解決の国境問題も抱えている。しかし国内の大部分では治安はよさそうである。インド旅行で気になる衛生状態であるが、生ものとサラダは避けるという原則を守っていて、旅行社が主催する13日間の一般観光旅行中に一度も下痢をしなかった。スリやたかりなどの恐ろしい目にも逢わなかった。

 今回の旅は、インドの中西部を巡る13日間の旅である。広いインドのごく一部に過ぎないが、インドの歴史と文化を垣間見るいい機会になった。

インド(1)は、ムンバイ、エレファンタ島、オーランガバード、エローラとアジャンタの石窟寺院、
          ビンベトカ岩陰遺跡
、サーンチーの仏教遺跡など
インド(2)は、カジュラホの寺院群、サールナート、ガンジス川の礼拝と沐浴、アグラ、
       タージ・マハル、アンベール城、ジャイプル、デリーなど



です。合せてご覧下さい。                               (2016年5月)
              お願い
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 下記にメールでお知らせ願います。
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 現地語の日本語表記にはいつも悩むところです。「vi」には「ヴィ」を用いましたが、
 慣用的には「ビ
」も用いました。原則的には「地球の歩き方」の表示に準拠しました。
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       アジャンタ石窟寺院の第26窟
アジャンタ石窟寺院が造営されたのは2つの時代に分けられる。前1世紀の前期窟(小乗仏教期)と後5世紀の後期窟(大乗仏教期)である。第26窟は後期窟で、インド文明が黄金期を迎えた5世紀中頃。当時、中央インドを支配していたヴァーカータカ帝国の信仰に篤い家臣たちが、財と威信をかけて造営した。

やがて、アジャンタは放棄され、寺院群はジャングルに飲み込まれてしまった。それから1000年以上経った1819年に、マドラス駐屯のイギリス騎兵隊士官ジョン・スミスによって密林の中から発見された。アジャンター石窟寺院群は、1983年に世界遺産に登録された。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

インド共和国とその周辺国
 ◍ 首都   日本との時差 : 日本より3.5時間遅れ


インド共和国の概要
国 名 インド共和国
国 旗
首 都 デリー
政 治 大統領を元首とする議員内閣制、連邦議会と州議会で構成
1947年イギリスから独立
1945年国連加盟
面 積

327万7590km2
(日本の8.7倍)

人 口

13億1000万人(日本の10.3倍)
インド・アーリア人72%、ドラヴィダ人25%、モンゴロイドその他3%

言 語

ヒンディー語(連邦公用語)、英語(第二公用語)
州の公用語(英語とヒンディー語など)

宗 教 ヒンドゥー教80.5%、イスラム教13.4%、キリスト教2.3%、シク教1.9%、仏教0.8%、
ジャイナ教0.4%、ゾロアスター教0.02%
産 業 農業をはじめとする第一次産業は、世界第2位の規模を誇り、植物育種や灌漑設備の整備、農薬の普及といった「緑の革命」を実施し、独立後60年あまりで人口が12億人にまで増えたにもかかわらず、自給自足達成国となった。米輸出国。主な農産物は米 、小麦 、卵、綿花、カシューナッツ、マンゴー、サトウキビ、ココナッツ、茶など。農業は労働人口の52%が従事し、GDPの16%を占めるインド経済の中心である。

インドは世界第14位の工業生産国であり、2007年において工業でGDPの27.6%、労働力の17%を占める。製造業の花形である輸送機械産業はオートバイ、スクーター、オート三輪の生産が盛んである。二輪車市場は2012年には中国を抜いて世界第1位であり1300万台以上。自動車は、タタ・モーターズなどの地場資本の自動車メーカーの他、スズキなどが、地場資本と提携する形で進出している。自動車生産は2011年には393万台で世界第6位で輸出もしている。石油製品は需要を上回る生産能力を保有するようになり、今日では石油製品の輸出国となっている。

インドは先進国企業の情報技術導入が進むなかで、ソフトウェアの開発および販売、欧米企業の情報技術関連業務のアウトソーシングの受注を拡大させている。ソフトウェア産業は2003年時点では国内GDPの2.6%を占めるまでに至っている。
GDP
2015年

2.09兆米ドル/年 (日本の51%、世界7位)
1人当たりGDP1,617米ドル/人年 (日本の1/20、世界143位)



インドの略歴史年表
西暦  インドの歴史  訪問したインドの遺跡の時期
BC2600~1800頃 インダス川流域にインダス文明が栄えた  ビンベトカの岩陰遺跡
1500~1000頃 インド・アーリア人が北西インドに侵入し、ガンジス川流域を支配して定住生活に入る
インド・アーリア人はバラモンを頂点としたかカースト制度に基ずく社会を形成した
 
477頃~383頃 ジャイナ教を開いたマハーヴィーラ(477年歿)、仏教を開いたブッダ(383年歿)  
327~325 アレクサンドロス大王のインド遠征  
268 アショーカ王即位、南端を除くインドを統一し、仏教を統治理念に アショーカ王の石柱
AD 150頃 クシャーナ朝最盛期、カシニカ王仏教を保護、大乗仏教起こる アジャンタの石窟寺院(前期窟)
320 チャンドラグプタ1世がグプタ朝を興し、インドを統一、バラモン教はヒンドゥー教に発展 アジャンタの石窟寺院(後期窟)
7世紀前半 玄奘三蔵がナーランダ大学で学び、経典を唐へ持ち帰る エレファンタ島の石窟寺院
753 デカン高原にラーシュトラクータ朝成立 エローラの石窟寺院
830~1203 ガンジス川中流にチャンデーラ王国 カジュラホの寺院
1192 ゴール朝などのイスラム諸王朝が北インドを支配  
1206 デリーを都にマムルーク朝(奴隷王朝)始まる、イスラーム支配の開始 クトゥブ・ミナール
1336 南インドにヒンドゥーのヴィジャヤナガル王国が興り、北のイスラーム勢力と対立  
1498 ポルトガルからヴァスコ・ダ・ガマが来航  
1526 インドにおける最後にして最大のイスラーム帝国(ムガル帝国)が興る フマユーン廟
1556 ムガル帝国アクバル帝即位 アグラ城、ファテープル・スィークリー
1600 イギリスが東インド会社を設立  アンペール城
1628 ムガル帝国シャー・ジャハーン即位 タージ・マハル、ラール・キラー
1760 ヴァンデヴァッシュの戦いで、フランス東インド会社がイギリス東インド会社に敗れる  ジャンタル・マルタン天文台
1853 インド最初の鉄道、ムンバイ~ターナー間に敷かれる 旧ビクトリア・ターミナス駅
1857 インド大反乱(セポイの反乱)  
1877 イギリスのヴィクトリア女王がインド皇帝兼任を宣言  
1913 詩人タゴールがノーベル文学賞を受賞 タージ・マハール・ホテル
1919 ガーンディーが不服従運動を開始 ムンバイのインド門
1948 ガーンディーが暗殺される デリーのインド門
1950 インド憲法発布、共和国成立、初代首相はネール  
1974 インド初の核実験   
2005 インド北部からパキスタン北部にかけて大地震、死者約7万人
GDPが9063億ドルに達し、日本、中国に次ぎアジア第3位になる
 


インドの旅の宿泊地と主要訪問地のGPS地図
青線はGPSによる軌跡)    は移動方向
 
①②などは宿泊地  成田~⑥はインド(1) (この頁です)  ⑦~成田はインド(2) (次の頁です)




1日目
(11月23日)
 成田空港→デリー空港→ムンバイ空港→ムンバイのホテル(泊)

今日は成田空港を出発してデリー乗継でムンバイまで飛び、ムンバイのホテルに泊まる

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成田空港の搭乗掲示板、珍しく出発が15分早まった エアインディアAI307便 B787−8機

機内の表示モニタによるデリーへの飛行経路

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デリーで乗り継いで到着したムンバイ空港 ムンバイのラリットホテル



2日目
(11月24日)
 ムンバイのホテル→インド門→エレファンタ島→ムンバイ空港→オーランガバード空港→オ−ランガバードのホテル(泊)

ムンバイ

ムンバイ(1995年に英語のボンベイから現地語のムンバイに変わった)は、インド最大の都市であ。ムンバイ市域人口は1,248万、周辺の大都市をも含めた都市圏人口は2,129万人であり、世界第6位である。天然の良港に恵まれていることもあり、国全体の海上貨物の半数以上を担う港湾都市でもある。

ムンバイの歴史は古く紀元前までさかのぼる。 1534年にバハードゥル・シャーからこの地域を譲り受けたポルトガルが、ゴアの補助港としての小島に城塞を築き、キリスト教会を建て、ここを「ボンベイ」と呼んだ。この名はポルトガル語のボン・バイア(良港)に由来するといわれる。1661年、ポルトガルのカタリナ王女がイギリスのチャールズ2世と結婚する際、ボンベイは持参金としてイギリス側に委譲された。1668年、英国王家はこれを10ポンドでイギリス東インド会社に貸し付けた。

1853年にはボンベイと北郊の都市ターナーとの間にインド初の鉄道が開通し、やがてインド全土に張り巡らされた鉄道によってボンベイは貿易港としてますます発展していった。1850年代には多くの綿紡績工場も建設され、この地の産業を大きく発展させた。1869年のスエズ運河開通によってボンベイは直接ヨーロッパと結ばれることとなり、ボンベイ港の重要性はさらに高まった。

ボンベイ財界はカルカッタ財界と異なり、綿織物工業を基盤としたインド人資本家が多数存在した。1903年にはタタの手によってタージマハル・ホテルが建設され、世界有数の高級ホテルとなった。こうしたインド人による経済の発展は労働運動や民族運動をも生み出した。

ムンバイは熱帯に属し、ケッペンの気候区分においてはサバナ気候に属する。英国の旅行ガイドブック「Rough Guides」が2014年に発表した「世界で最も魅惑的な20都市」ランキングで、ムンバイ市がアジア最高の5位にランクインした。

ムンバイのホテルで

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ホテルのレストランから眺める南国風の庭 ホテルの客室からの眺め 〈ホテルと貧民の家)

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ホテルのテレビで見たNational Geographicの番組 ホテルのテレビで見た若い女性たちの討論



ホテルからインド門へ

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ムンバイのラリット・ホテル ホテルの前の粗末な家の前で車の清掃をするタクシー運転手

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バスのフロントグラスに張られた
ゾロアスター教のシンボルマーク 
高層アパートの立ち並ぶバックベイは
その形から「ネックレース」と呼ばれる

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南インドではどこでも見かけるボダイジュの木 白い花をつけるチャンパの木
チャンパの木とは現地ガイドによる。日本でいうプルメリアのようである。


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    高さ26 mの玄武岩のインド門(インド・サラセン様式)
この建物は、ジョージ5世とメアリー王妃が1911年に訪れた
ことを記念して建立された。この記念建造物の建設は1924年
に完了した。
タージ・マハル・ホテル&タワー
インド門の前にある世界有数のホテルは
インド最大の富豪といわれたジャムシードジー・ターターが建てた
 
19世紀末、ムンバイの資本家だったターターは、外国の友人とあるホテルへ夕食に出かけた。ところがそのホテルはヨーロッパ人専用であるとして入場を拒まれた。この事件は彼にインドの入口であるムンバイに世界に通用する一流ホテルの必要性を感じさせた。ホテルは1903年に完成し、「アジアの星」と称えられた。



船でエレファンタ島へ

観光船でエレファンタ島に出かけた。港を出ると、湾内にはインド海軍の基地があり、撮影禁止となる。

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インド門の近くの波止場から観光船に乗る 船からインド門とタージ・マハル・ホテル&タワーがよく見える

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船上で見かけたサリーをまとったインドの婦人
インド・ネパールなど南アジアの女性の民族衣装である。
5m程度の長さの布を巻きつけるが、これは縫製されているかもしれない。
インド門から1時間ほどでエレファンタ島の桟橋に着く
エレファンタ島は長辺2kmほどの島で、標高200mの
岩山の山頂に石窟がある



エレファンタ島

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桟橋から山の麓まで、1kmほどの間に無料の軽便鉄道がある 餌をやる人がいるので、野良犬がついてくる

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軽便鉄道の沿線に土産物屋が並ぶ ここが鉄道の終点。ユネスコ世界遺産の標識がある

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鉄道の終点からは、両側に土産物屋が並ぶ参道を登る。 籠を勧められたが、辞退する

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エレファンタ島には5窟のヒンドゥー教の石窟寺院がある。石窟は6~8世紀に造られた。
一番手前にある第1窟を見学する。40m四方ほどの空間が20本ほどの柱を残して彫り削られている。

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ヒンドゥー教の神々の像が彫られている
 
ヒンドゥー教のシヴァ神の象徴
シヴァリンガ(男根)



ムンバイからオーランガバードへ

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ムンバイの街には旧宗主国イギリスの風情が残る

チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅(旧名ヴィクトリア・ターミナス駅)
10年の歳月をかけて1887年に完成したコロニアル建築は世界遺産

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ムンバイ空港のオーランガバード行の搭乗表示板 ジェットエアウェイズ9W2511便、ターボプロップ双発機ATR 72か



3日目
(11月25日)
 オーランガバードのホテル→ダウラタバード城→エローラ石窟寺院→オーランガバード石窟寺院
                         →
オビービー・カ・マウバラ
→オーランガバードのホテル
(泊)

レモンツリー・ホテル

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プールのある瀟洒なホテル 玄関のボーイ

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レモンツリー・ホテルだが、この木はプルメリア。ラオス語で「チャンパ」といって、ラオスの国花だ。



ダウラタバード城

ダウラターバードには、仏教徒によって前1世紀頃に造られたとされる石窟が残っていることから、その頃から仏教徒を含む人々が定住していた可能性がある。ヤーダヴァ朝は1147年にダウラタバードを首都として独立した。

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 高さ200メートルの円錐状の丘の上に築かれたダウラターバード
 要塞は、中世インドで最強の要塞の一つであった。1447年に建て
 られた光塔は、高さは30mで当時は光沢のあるタイルで覆われて
 おり、まさに光り輝く塔だったと伝えられている。
オレンジ色の旗はヒンドゥーの寺。
 
 
 



インドで出会う宗教

                           世界宗教と民族宗教

宗教
とは、一般に人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、またその観念体系に基づく教義、儀礼、組織などを
そなえた社会集団のことであるといわれている。

人種や民族、文化圏の枠を超え広範な人々に広まっている宗教は
世界宗教と呼ばれる。今日世界宗教とみなされている宗教は
キリスト教、イスラム教、仏教である。過去にはマニ教、ゾロアスター教も世界宗教の性質を有していた。一方、特定の地域や民族
にのみ信仰される宗教は
民族宗教と呼ばれる。ユダヤ教や神道、ヒンドゥー教などがこれに分類される。


      
ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、ゾロアスター教

ヒンドゥー教はバラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土 着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教で ある。 紀元前2000年頃にアーリア人がイランからインド北西部に侵 入した。彼らは前1500年頃ヴェーダ聖典を成立させ、これに基づく バラモン教を信仰した。

紀元前400年頃にバラモン僧の腐敗の元、宗教改革で出来上がっ たのが
ジャイナ教と仏教だ。ジャイナ教は商人層に拡がり、仏教は 支配階級層に拡がった。

このため、バラモン教は変貌を迫られた。その結果 バラモン教は民 間の宗教を受け入れ同化してヒンドゥー教へと変化して行く。ヒン ドゥー教は紀元前5 - 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 - 5世紀に当 時優勢であった仏教を凌ぐようになった。この頃のヒンズー教や仏 教やジャイナ教の区別は殆どない。大きな違いはヒンズー教がカー ストを認めるのに対して残り2つはカーストを認めないことである。

ジャイナ教は、、マハーヴィーラ(釈迦在世時代の六師外道の一人)を祖師と仰ぎ、徹底した苦行・禁欲主義をもって知られるインドの宗教。ジャイナ教はあらゆるものに生命を見いだし、動物・植物はもちろんのこと、地・水・火・風・大気にまで霊魂の存在を認める。白衣派と裸形派がありいずれも多くの分派が派生している。

しかし、その後インドの民族宗教としてヒンズー教が民衆に信仰さ れ続けてきた。
仏教はインドでは根付かなく、東南アジア、東アジ アで盛んになる。

ヒンズー教は、三神一体(トリムルティ)とよばれる近世の教義では 、中心となる3大神、
すなわち

ブラフマー:宇宙の創造を司る神
ヴィシュヌ:宇宙の維持を司る神
シヴァ  :宇宙の寿命が尽きた時に世界の破壊を司る神

は一体をなすとされている。しかし現在では、ブラフマー神を信仰 する人は減り、ヴィシュヌ神とシヴァ神が二大神として並び称され 、多くの信者がいる。その中でブッダはヴィシュヌ神の生まれ変わ りとして描かれた。ヒンズー教での仏陀は、第9番目の聖人としてい る。

また、輪廻はインドにおいてサンサーラと呼ばれる。サンサーラと は、生き物が死して後、生前の行為つまりカルマの結果 、次の多様な生存となって生まれ変わることである。インドの思想 では、限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を苦と見、二度と再生 を繰り返すことのない解脱を最高の理想する。

輪廻教義の根幹に、信心と業(カルマ)を置き、これらに よって次の輪廻(来世)の宿命が定まるとする。具体的には、カー ストの位階が定まるなどである。 業(行為)にもとづく因果応報の法則(善因楽果・悪因苦果・自業 自得)であり、輪廻の思想と結びついて高度に理論化されてインド 人の死生観・世界観を形成してきたのである。

このように輪廻と業は、仏教もヒンズー教も同じ思想である。

ゾロアスター教は古代ペルシアを起源の地とする善悪二元論的な宗教であるが、善の勝利と優位が確定されている宗教である。
ゾロアスター教では、宇宙万物を創造したアフラ・マズラーを唯一神としている。善悪二元論を特徴としているが、創造神を認める点で、ゾロアスター教は「最古の一神教」といわれる。ゾロアスター教は光(善)の象徴としての純粋な「火」)を尊ぶため、拝火教とも呼ばれる。

ゾロアスター教の起源は古く、BC6世紀にアケメネス朝ペルシアが成立したときに、王家と王国の中枢をなすペルシア人が信奉する宗教であった。BC3世紀に成立したアルサケス朝パルティアでもヘレニズムの影響を受けつつアフラ・マズダーへの信仰は守られた。3世紀初頭に成立したサーサーン朝ペルシアでは、国教とされて王権支配の正当性を支える重要な柱とみなされた。7世紀後半以降のイスラム教の台頭とペルシア人のムスリム化によってペルシアのゾロアスター教は衰退し、その活動の中心はインドに移った。今日、世界におけるゾロアスター教の信者の数は10万と推計される。インドやイラン、その他欧米圏にも信者は存在するが、それぞれの地域で少数派の地位にとどまっている。
                                           インターネットから
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インドの宗教における
像やシンボル
の例
ヒンドゥー教の神々
ジャイナ教のアーディナータ像
仏教のシャカ像
ゾロアスター教のプラヴァシ像



エローラ石窟寺院群

オーランガバードからバスに揺られてデカン高原を走り、ダウラターバードの要塞を過ぎると、エローラの遺跡に着く。ここはジャイナ教、仏教、ヒンドゥー教の石窟寺院群である。特にヒンドゥー教のカイラーサナータ寺院は、756年に着工し完成に100年以上を要した。人間技とは思えない壮大さである。1983年に世界遺産に登録された。

ジャイナ教石窟

32窟、33窟、34窟は、ジャイナ教石窟である

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岩山に彫られた石窟寺院群は、左から34窟、33窟、32窟 32窟に入る

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樹の下で象に乗る
インデゥラ
実物より大きい象の彫刻
 
マンゴーの樹の下で
ライオンに乗るインデゥラ

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天井に大きな蓮の花が彫られた部屋。これらは岩山から掘り出されたもので、正にマイナスの建築といえる。 ライオンに乗る女神

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仏像 色が残る壁画 2階部分の柱



仏教石窟

10窟は仏教石窟である。

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10窟は入口は2階建だが、内部は吹き抜けで、
上部に明り取りの窓がある
 
10窟は他の石窟と異なりストゥーバ(仏塔)を祀るために造られた
7世紀に造られたものでインドのチャイティヤ建築の最高峰とされる
音響効果も素晴らしい。下にある動画でお聴きください。

穏やかな表情の仏像

(動画)10窟の中で祈りを唱える現地ガイドのマヤさん



12窟も仏教石窟である

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3階建ての12窟の外観 入口の仏像は、どう見てもヒンドゥーの神様

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仏像だが、なぜかヒンドゥーの感性で彫られている

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3階からデカン高原が望まれる 3階の広い廊下、雨水を流すのかくねった溝がある

ヒンドゥー教石窟

16窟はヒンドゥーの石窟である

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16窟の外観 入口に建つヒンドゥーの神々

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中庭に並ぶ宇宙を支える象の群れ
 
ここはシヴァ神を祀ったカイラーサナータ寺院
すべての建築物が岩山からノミと金槌で彫り出されたのに驚く

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最後に16窟の横にある丘に登り、遺跡庭園を眺める
丘から俯瞰するカイラーサナータ寺院は、下の動画でご覧下さい
16窟を出たところでインド人の家族に出逢ったので
1枚撮らせてもらった 

(動画)16窟の隣の丘の上からカイラーサナータ寺院を俯瞰する



オーランガーバード石窟寺院

エローラ石窟寺院群から車で1時間ほどのところに、6~7世紀に建造されたオーランガーバード石窟寺院がある。

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石窟寺院の前からデカン高原を眺める
デカン高原は、白亜紀末期(約7000万年前)に噴出した玄武岩で形成された溶岩台地
野鳥のつがい
 

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石窟寺院の外観 石窟寺院に入る

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案内してくれる現地ガイドのマヤさん 日本人になじみの釈迦像 ヒンドゥー教の像



デカン高原は、ホットスポットから生まれた巨大な玄武岩台地
インド亜大陸の大部分を占めるデカン高原(Deccan Plateau)はどのようにしてできたのだろうか。

デカン高原は、インド共和国の4つの州にまたがる。デカン高原は大きな三角形をしており、北辺はヴィンディヤ山脈、東西端はそれぞれ東ガーツ山脈・西ガーツ山脈である。総面積は1,900万km2、ほぼ平坦で標高は300-600mである。「デカン」の名称はサンスクリット語で「南」を意味する dakshina に由来する。


この高原は両ガーツ山脈の風下になるため半乾燥地帯である。植生は一部に落葉広葉樹林があるが、ほぼ全域を針葉低木林が覆う。夏の気候は暑く冬は暖かい。地形の起源としてはデカントラップと呼ばれる白亜紀末期(約7000万年前)に噴出した洪水玄武岩で形成された溶岩台地であり、玄武岩の風化によりできたレグール土(黒色綿花土とも呼ばれる)に覆われた肥沃な土地である。綿花の世界的な産地である。

デカントラップは、インドのデカン高原に分布する地球上でもっともな広大な火成活動の痕跡である。2,000m以上の厚さを有する洪水玄武岩の何枚もの層から成り、面積は延50万km2。「トラップ」とは階段を意味するスウェーデン語で、この地域の景観が階段状の丘を示すことに由来する。


デカントラップの成因については、アフリカプレートとインドプレートの分離を生じた海洋底拡大に伴い、インド洋レユニオン島(フランスの海外県)のあたりでマントルプルームがホットスポットとして活動し、合計3万年に亘る玄武岩噴出を引き起こしたと推定される。インド亜大陸はその後北上しユーラシア大陸に衝突した。
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インド亜大陸の中心に位置するデカン高原
  デカントラップはインド洋レユニオン島あたりに
  発生したホットスポットからの玄武岩噴出による
  と推定される 



ビービー・カ・マクバラー

アウランガーバードの町の一角に、ビービー・カ・マクバラーがある。マクバラーとは廟の意味。1678年にアウラングセーブ帝の息子であるアザム・シャーが母のラビア・ドゥラーンを偲んで建てた廟。タージ・マハルをモデルにして設計されたが、あれほど国費を費やすわけにいかなかったため、大理石を使っているのは墓標の周りとドームの部分だけで、あとは石材の上に漆喰を塗って装飾している。

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ドームの天井
上から墓標のある床を見る
形はタージ・マハルにそっくりだが、規模が小さく大理石の部分は少ない

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廟の中で休むインド人の家族 サリーを纏った婦人たち



4日目
(11月26日)
 オ−ランガバードのホテル→アジャンタ石窟寺院→ブサヴァル駅→ボパール駅→ボパールのホテル(泊)

アジャンター石窟寺院群

アジャンター石窟寺院群は、アウランガーバードから北東に約100kmの所に流れるワーグラー渓谷の断崖の中腹に刻まれた仏教寺院群である。エローラの石窟がその巨大さで圧倒するとすれば、アジャンター石窟は美しさで圧倒するといわれている。

アジャンター石窟寺院が開かれたのは2つの時代に分けられる。前1世紀ころの前期窟(小乗仏教期)と5世紀の後期窟(大乗仏教期)である。前期窟は、簡素な石窟で、内部には装飾もさしてなく、仏像という表現がなかった時代なのでストゥーバを礼拝対象として刻んでいる。これらの窟院を修行の場と定めた僧侶たちは、美しいワーグラー渓谷を背景に自らの研鑽を重ねたことであろう。

開窟が再開されたのは、インド文明が黄金期を迎えた5世紀中頃。当時、中央インドを支配していたヴァーカータカ帝国の信仰に篤い家臣たちが、財と威信をかけて造営し始めた。より荘厳に、より豪華に、最新の技術が用いられた。

やがて、ヴァーカータカ帝国の崩壊のためアジャンタは放棄され、寺院群はジャングルに飲み込まれてしまった。それから1000年以上経った1819年に、マドラス(現チェンナイ)駐屯のイギリス騎兵隊士官ジョン・スミスによって密林の中から発見された。アジャンター石窟寺院群は、エローラ石窟寺院群と同じく、1983年に世界遺産に登録された。

アプローチ

アジャンタ石窟寺院の駐車場で専用バスに乗り換えて、世界遺産の石窟寺院群の入り口へ。入口でガイドの説明を聞く。

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現地ガイドのマヤさん
 
アジャンター石窟寺院群は、ワーグラー川の湾曲部を囲む断崖を550mに
わたり断続的にくり抜き造られた寺院で、大小30の石窟寺院が存在する

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見事なガジュマルの木 名を知らないマメ科の植物

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緩やかな階段を上る ワーグラー渓谷の北岸に並んでいる



第1窟

第1窟は5世紀ころの後期窟の1つ。アジャンタ壁画の最高傑作といわれる蓮華手菩薩がある。

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第1窟の外観 柱は岩山から彫り残したもの 入口

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王宮で灌頂(継承者とするための儀式)する王
西暦500年頃の色彩がよく残っている。
花と牛の壁画
 
アジャンタ壁画の最高傑作と
いわれる蓮華手菩薩



第2窟

第2窟は後期ヴィハーラ窟(僧院窟) (5世紀後半)である。前期窟では、僧の居住空間に用いられた窟は、後期窟では、仏堂が取り付けられ仏像が本尊として祀られた。特に第2窟では壁画が美しい。

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第2窟の外観(右手) 入口

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王宮での生活か 仏画らしい

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天井絵 ラピスラズリを使ったのだろうか 千体仏 仏堂に祀られた本尊の仏像



第10窟

第10窟は前1世紀頃に造られた前期窟の1つ。中央にストゥーバ(仏舎利を安置した仏塔、卒塔婆ともいう)が立つ。壁や柱の絵がきれいに残っている。

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10窟の入口 広くて天井が高い。中央にストゥーバが立つ。

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柱に描かれた絵 壁に描かれた絵



第17窟

第17窟はアジャンターン地方を治める藩を開いたヴィハーラ窟。

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第17窟の入口。象の彫刻がある。 入ったところの天井

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内部の壁画 仏堂に本尊が祀られたいるのが、後期窟の特徴



第19窟

第19窟は、後期チャイティヤ窟。前期窟の第10窟と比べると装飾は複雑で巧みである。ストゥーバは仏像と一体化し、先端が天井に達している。

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第19窟の外観 中央にストゥーバが立つ

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柱と壁に掘られた仏像のレリーフ
 
ストゥーバの正面に彫られているのは
釈迦の立像である



第26窟

第26窟は、アジャンタで最後まで開窟作業が続けられた最も新しい窟である。インド最大の涅槃像がある。

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第26窟の外観、2階の窓は明り取り 美しいストゥーパを中心に繊細な彫刻が刻まれた柱が並んでいる

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後期窟の一般通り、ストゥーパの正面には釈迦像が彫られている 明り取り窓のおかげで窟内は明るい

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インド最大の涅槃像は全長7.3m
 柱のために像の全身を撮れないのが残念
 
 
 
                降魔成道
菩提樹の下で釈尊が悟りを開くのを邪魔するために悪魔の軍勢が攻撃してきた際に、悪魔の攻撃を退けて悪魔に勝利し、成道つまり開悟(悟りを開く)したというエピソード)を現したもの



遺跡内のレストランで昼食

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輿に乗って見学のユーロッパの婦人 ワーグラー川に架かる橋を渡って対岸に出る

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ブーゲンビリアの咲く道をレストランへ急ぐ 対岸から見納めの石窟寺院群

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昼食はカレーバイキング。インドではカレーが一番安心して食べられる食事。「毎日カレー」にすっかり慣れた。



アジャンタからボパールへ

バスの窓から

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収穫された後のトウモロコシ畑 生育中のトウモロコシ畑 放置された綿花畑

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オレンジ色の旗はヒンドゥー教寺院 緑の旗はイスラム教だろうか



ブサヴァル駅からボパール駅へ列車で

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ブサヴァル駅前に展示されている昔の蒸気機関車
 
例によって、ポーターがそれぞれ2~3個の
スーツケースを列車まで運んでくれる

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駅のプラットホームはインド人で一杯だ インド国鉄の警察の表示 ヒンディー語はさっぱり読めない

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KIOSKは世界共通だ ホームでの食物売り ホームの新聞売り

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火力発電所だろう。煙突と蒸発塔が見える。 湖に夕日が沈む

インド国鉄のエアコン付き・2段式寝台車は通路を挟んで4人マス席と2人席である。シートが広いのでインド人が3人掛け、私が1人掛けになった。
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暗くなる頃、上の寝台に寝ていたオヤジが起き出した。俺はエンジニアーだと称するオヤジは裸になって体を自慢しだした。やがて食事が始まった。私は手持ちのサンドイッチで済ませたが、連中がカレーを勧めてくれるので、ちょっと頂いた、その辛かったこと。胡椒がピリピリしていた。6時間あまりの乗車でボパール駅に着いた。



ボパール駅からホテルへ

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ボパールのヌールウッサパレス・ホテルに着くと、電飾と音楽で騒がしい。結婚式だという。音楽は深夜まで続いた。



5日目
(11月27日)
 ボパールのホテル→ビンベトカ→サーンチー→ボパールのホテル(泊)

ホテルにて

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ホテルの中庭 湖の見える屋外で朝食

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昨夜結婚式をしたカップルが新婚旅行に出かけるのを見送る。新婚旅行に出かけた後も宴会は続いているようだ。



ビンベトカの岩陰遺跡

ボパールの南46kmの丘の上にビンベトカの岩陰遺跡はある。ここには1万年ほど前の石器時代から紀元後までに描かれた数百に及ぶ岩絵が残っている。石器時代の岩絵はラスコーやアルタミラを彷彿させる牛の群れ、ゾウに乗ってバッファローを狩りする人たち、埋葬の様子、大勢の人が楽器を奏でる祭りの風景などがあり、興味が尽きない。2003年に世界遺産に登録された。

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古代人が描いた壁画が、この侵食された堆積岩の中にあるという 小学生が先生に連れられて見学に来た

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ゾウと狩りをする人 いろいろな動物

岩の凹んだところに壁画は残っているようだ

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バッファローの群れを描く手法は天下一品だ。ゾウもいる。 埋葬をする様子か

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これは馬上で戦う人たちか 大勢が楽器を奏でる祭りかも知れない



バスの窓から

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インドの高速道路には、このように曲がりくねった所もある トラックの荷物の上に人が乗るのは珍しくない

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サーンチーへ行く途中で、突然黄色い線が
道路に斜めに引かれているのに出会った
これは北緯23度26分の北回帰線だ。毎年夏至の正午には太陽は線の真上に来る。これより南は熱帯、北は亜熱帯と呼ばれる。
地球の自転軸と公転軸の差は、長年の間に微妙に変化する。約4万年周期で22.1度から24.5度の間を変動する。これは地表面にすると約260kmに相当する。また18.6年周期で9分の変化がある。これは地表面にすると約280mに相当する。このように変動する回帰線を道路上に固定した1本の線で描くのは、面白いという他ない。



サーンチー

広々と草地が広がるなだらかな丘の上に、2000年以上経た仏塔(ストゥーパ)が建つ景観には、静かな平和な雰囲気が漂っている。ストゥーパなど数々の仏教建造物は1989年に世界遺産に登録された。

大ストゥーパ第1塔

直径37m、高さ16m。アショーカ王が基礎を造り、その後紀元前2~1世紀に完成した。四方に建つ塔柱には見事な彫刻がある。

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サーンチー遺跡地図     websiteより 大ストゥーパ第1塔の全景

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第1塔の北塔門 第1塔の北塔門の部分拡大、絵柄が面白い 第1塔の西塔門

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第1塔の南塔門
 
第1塔の南塔門の部分拡大
4頭の獅子像のある柱頭は、10ルピー紙幣の図柄に使われている

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柵の中に入ると仏像があった



ストゥーパ第2塔と僧院跡

第1塔から500mほど下った池のほとりにあるストゥーパ第2塔は、前2世紀に建てられたもの。塔上部の傘蓋は失われているがほかの部分はほぼ復元されている。

大ストゥーパ第1塔の上に登ると西方に広大な僧院跡が見える

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僧院跡の更に西方に、
人間が入れるくらい大きいコーヒーカップ状の石があった
僧院跡から帰る途中に池とストゥーパ第2塔があった
 



ストゥーパ第3塔を見て、ホテルへ

前2世紀に建てられたこの仏塔は、ブッダの高弟として知られる舎利弗(漢訳では舎利子とも表される)と目犍連(もっけんれん)の遺骨が納められていた。 現在その遺骨はヴィーハーラ寺に祀られているという。

ストゥーパ第3塔を見て、駐車場の方に戻る

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駐車場の近くのボダイジュ インドのブッダガヤにあったボダイジュの木が破壊されたので、
スリランカに植えたボダイジュとインドのそれとを、ネール首相が合せ、合体木にしたという。
インドとスリランカの友好の印として、スリランカから坊さんたちが祭典に来ていた

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ボパールのホテルに戻ると、結婚式の後の宴会は、まだ続いていた。



6日目
(11月28日)
 ボパールのホテル→ボパール駅→ジャンシー駅→カジュラホ→カジュラホのホテル(泊)

ボパール駅からジャンシー駅へ

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ボパール駅発の列車の案内板 インド人でごった返すプラットホーム

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KIOSKと価格表  ミルク200ml 20RS、
ラッシー(液体ヨーグルト) 200ml 19RS、ミネラルウォータ1000ml 15RSなど
1RS(ルピー)=約2円で換算すると日本の半値以下だが、所得を考えると… 
インド国鉄の列車は2等寝台車(冷房付)である
 
 

A インド国鉄2等寝台車のレイアウト
websiteより
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今度は一昨日と異なり、旅仲間で4人1室が確保できた トイレは、日本の新幹線とはいかないが、在来線特急並み



オルチャ・アマルマハル・ホテルで昼食

列車が予定より早く着いた(こんなことは滅多にないという)ので、予定の弁当でなくオルチャのレストランでで昼食。オルチャはベトワ川沿いの小さな村であるが、最近は外国人観光客も増えているらしい。その気持ちはよく分る。宮殿跡や寺院が残っているからだ。

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ホテルからの見える古城 ホテルの中庭

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ホテルのレストランの入口 レストランのドアーボーイ

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レストランを飾る民族風の絵画 旅仲間で昼食



バスの車窓から(牛との共存)

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ヒンドゥー教のインドでは、牛は神聖であるので食しない。野にも町にも野良牛が一杯である。 牛の食害から植樹を守る手立て

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村や町にはいたるところに井戸がある 住まいと子供達 野良牛の糞を集めて乾燥させて燃料に



インドの民族舞踊鑑賞

オルチャからバスでカジュラホのホテルに着き、夕食をした。
その後、ホテル近くでインドの民族舞踊を鑑賞した。

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(動画)冒頭の音楽の旋律が日本の民謡に似ているのに、驚いた (動画)インド国旗を掲げ、国威発揚を図る舞踏おように思われた



カジュラホに到着したところで、インド(1)は終了します

インド(1)では、ムンバイ、エレファンタ島、オーランガバード、エローラ石窟寺院、アジャンタ石窟寺院、
          ビンベトカ岩陰遺跡
、サーンチーの仏教遺跡などを訪ね、カジュラホまで来ました。
          世界遺産も6箇所訪ねました。
如何でしたか。
インド(2)では、カジュラホの寺院群、サールナート、ガンジス川の礼拝と沐浴、アグラ、
       タージ・マハル、アンベール城、ジャイプル、デリーなど
回ります。
          世界遺産も5箇所訪ねます。


引き続き、下の [次へ] をクリックして、インド(2)をご覧ください。 



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