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大和路(3)----万葉のふるさと、藤原・飛鳥を訪ねる
  
 今回の大和路シリーズの最後は、藤原宮跡と飛鳥である。
日本の歴史は592年の推古天皇の即位辺りで古墳時代から飛鳥時代に移る。 聖徳太子が推古天皇の摂政となり、律令国家の形成へと進む。 大化の改新、壬申の乱などを経て、694年には飛鳥から藤原京へ遷都する。

 701年には大宝律令が完成し、わが国の律令体制が確立していく。710年には藤原京から奈良の平城京へ遷都され、奈良時代を迎える。これから先は「大和路(1)」の世界である。

 藤原・飛鳥の時代は、万葉集が最も花開いた時期でもある。
さあ、万葉のふるさとを訪ねよう!          (2002年4月)
甘樫丘から眺める畝傍山
 
大和路広域図
  
大和路(3)詳細図 (藤原、飛鳥)
  

  
藤 原 宮 跡
 
 畝傍(うねび、199m)、耳成(みみなし、140m)、香久山(かぐやま、152m)の大和三山に囲まれ、その間を飛鳥川が流れる、誠に落ち着いた場所に、藤原宮跡はある。 694年に持統天皇は、飛鳥浄御原宮から藤原宮に遷都した。 その後、710年に元明天皇が平城宮に遷都するまでの16年間、ここが日本の首都であった。
 
 藤原京は、中国唐の首都長安をモデルに造営された我が国最初の計画都市で、その規模は大きく、1辺約5kmと想定する学者もある。 藤原京の中に政務を掌る藤原宮があった。 藤原宮の広さは約1km四方であることが発掘で分っている。 しかし現在の藤原宮跡には大極殿の基壇が残るのみである。 奈良の平城宮跡のように次々に復元されるのもいいが、ここのように復元されたものがなく、三山を眺めながら昔の都を想像するのも悪くない。
  
藤原宮跡を囲む山々  遠方は左から金剛山、葛城山、二上山、手前は畝傍山 (4枚合成パノラマ)
  
藤原宮跡から見る耳成山 藤原宮跡から見る香久山(手前)
 
橿原考古学研究所
付属博物館
                奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
県内で発掘された遺跡の出土資料が展示されている。時間を掛けてゆっくり見学したかった。
ぜひ、また訪ねたい。
 
藤ノ木古墳から出土した金銅製履(くつ)の復元品
 

 
飛 鳥
 
 なだらかな丘陵地の此処彼処に古墳や名刹、なぞめいた石造物がある飛鳥。 ここは6〜7世紀の日本の政治の中心地だった。 ここで繰り広げられた恋のロマンスも血なまぐさい政権争いも、すべては1300年の時に包まれる。

 さあ、万葉の世界に歩み出そう。
  

 
甘 樫 の 丘
 
             甘樫丘(あまかしのおか)
林の中を一歩一歩登りながら、期待に胸は高鳴る。標高148mの頂上に立つと、大和三山をはじめ飛鳥全体が展望できた。
 
畝傍山、遠方は二上山 耳成山(左) と 香久山(右)
 
大和三山は、万葉人の心を捕らえたとみえて、万葉集に多くの歌が残されている。

 香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくなるらし
 いにしへも しかなれこそ うつせみも つまを 争ふらしき         (天智天皇)
畝傍山をめぐって香久山と耳成山が争ったと言い伝えがあるが、昔もそうだったように現実の世も恋人を争っているようだ、という意であろう。

 春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣ほしたり 天の香久山         (持統天皇)
これは、百人一首にもあり、説明を要しないだろう。

 無耳の 池し恨めし 吾妹子が 来つつ潜(かづ)かば 水は涸れなむ  (作者不詳)

三人の男に求婚され、思い余って身を投げた乙女の伝説に基づき、身投げしたときに池が涸れてくれればよかったのに、と詠っている。
 

 
水 落 遺 跡
 
                水落(みずおち)遺跡
「日本書紀」は斉明天皇6年(660)に中大兄皇子(後の天智天皇)が日本で初めて水時計を造ったと伝える。ここがしに時計台跡とみられている。
 

 
飛 鳥 資 料 館
 
                 飛鳥資料館
高松塚古墳や飛鳥寺など飛鳥の発掘調査で出土した遺物や、復元模型などを展示している。
  

 
山 田 寺 跡
 
                 山田寺跡に建てられた石造りの説明板
山田寺は、641年に着工し2年後に金堂が完成した後一時中断したがその後本格的に造営が再開され、676年に塔が完成した。発掘調査によれば、東西118m、南北185mの寺域に、南門、中門、塔、金堂、講堂が一直線に並び、回廊が塔と金堂を囲む伽藍配置であったことが分った。
 
現在のお堂は粗末なもので、正に廃寺である 遺構が発見され、保存されている
  

  
飛 鳥 寺
  
 
           飛鳥寺金堂
蘇我馬子が6世紀末に建立した、わが国初の本格的寺院。本尊の釈迦如来坐像は飛鳥時代の作。飛鳥大仏の名で親しまれている小さな大仏である。
中大兄皇子と中臣鎌足たちが蹴鞠をしたのは、この境内であったという。
          蘇我入鹿の首塚
中大兄皇子と中臣鎌足たちが計画して飛鳥板蓋宮の正殿の前庭で蘇我入鹿が斬り殺された。 時に645年、大化の改新の幕開けである。
背後の丘は「甘樫の丘」
  

酒 船 石
  
              酒船石
飛鳥に数多く残された「なぞの石造物」と呼ばれるものの1つ。庭園施設という説がある。
酒船石遺跡の一角にある亀形石造物。水を用いた祭祀空間ともいう。
  

  
万 葉 文 化 館
  
              奈良県立万葉文化館
平成13年に開館した万葉ミュージアッム。万葉集をモチーフに描かれた日本画の展示、テーマパークさながらの万葉人の生活の展示などがある。内部は高級ホテルか結婚式場のように立派である。はたしてこのような施設が飛鳥に必要だろうか。
 

 
伝飛鳥板蓋宮跡
 
斉明天皇の宮殿で、大化の改新の舞台となった飛鳥板蓋宮の伝承地。
復元されている遺構は、天武天皇の飛鳥浄御原宮のものといわれる。
飛鳥浄御原宮は藤原京遷都まで23年間の都であった。
 

 
犬養万葉記念館
 
万葉学者 大阪大学名誉教授 犬養孝先生の足跡をたどる記念館。
在学中に講義を聴かなかったことが悔やまれる。
 

 
岡  寺
 
長くてきつい坂道の参道を上り詰めると、仁王門が迎えてくれる。 662年創建のこの寺の本堂には、わが国最大、最古の塑像である如意輪観音像が鎮座する。
 
境内は高台にあり、ボタンやシャクナゲの花が美しい
 

 
石 舞 台 古 墳
 
巨石を積み重ねた石室は飛鳥のシンボル的存在。
大化の改新で殺された蘇我入鹿の祖父蘇我馬子の墓ともいわれる。
 

 
橘  寺
 
               太子堂
606年推古天皇の仰せで聖徳太子が建てた寺という。太子の愛馬 「黒の駒」 の像があるが、緑色だった。

  橘の 寺の長屋に わが率寝し
  童女放髪は 髪あげつらむか (作者不詳)
少々不謹慎な歌だが、おおらかな当時が偲ばれる。
二面石
人間の善悪の二面を表すという

 
川 原 寺 跡
 
もとの姿は飛鳥川原宮。宮跡に天平の十大寺に数えられる大きな川原寺が創建された。今は後世に建てられた小さな本堂を残すのみ。ひっそりと残る礎石に往時の華麗さが偲ばれる。      付近を流れる飛鳥川

明日香川 瀬瀬の玉藻の うちなびき
心は妹に 寄りにけるかも (作者不詳)
 

 
聖徳太子誕生所
 
橘寺と川原寺に近い、聖徳太子誕生所と伝えられる場所 
 

 
亀  石
 
亀がうずくまっているような姿から亀石といわれる。用途は不明
 

 
鬼の俎(まないた) ・ 鬼の雪隠(せっちん)
 
左の「鬼の俎(まないた)」は扁平な巨石、右の「鬼の雪隠(せっちん)」(厠ともいう)は内部が切り抜かれた巨石。昔このあたりに鬼がいて、旅人を捕らえて俎で調理して食い、満腹になると雪隠で用を足したという伝説がある。
 

 
欽 明 天 皇 陵
 
周濠もなく、こじんまりとした欽明天皇陵
 

吉備姫王墓・猿石
 
どういうわけか、吉備姫王墓の中に「猿石」がある

高 松 塚 古 墳
1972年(昭和47年)、竹やぶの中の小さな古墳から華麗な装飾壁画が発見されたという報道は、生々しく記憶に残っている。 とりわけ石室の西壁に描かれた4人の女性像の写真を見て、これが1300年も前のものかと目を見張った。

この古墳の被葬者は確定されていないが、梅原猛氏は皇位継承に絡んで不遇の死を遂げた弓削皇子であるとしている。
 
       高松塚古墳の外観
直径18mの円墳。石室の内部は厳重に保存され、壁画の実物は見ることができない。
古墳のすぐ隣の高松塚壁画館で壁画の精巧な模写を見ることができるが、模写も一切撮影禁止である。
 
壁画女性像 (朝日新聞社 「日本の歴史2 古代」 より)

 
 かねてより訪ねたいと思っていた大和路を2泊3日で駆け足で回った。 若い頃はさほど関心がなかった古代史や万葉の世界に、最近は魅力を感じるようになった。 藤原京跡で乗った若いタクシーの運転手が、いみじくも言った、「ここの良さは若い人には分らないけれども、人生を重ねた人には分るようですよ」 と。

 次回には、山の辺の道や葛城の方にも足を伸ばしたい、万葉集にゆかりの地を季節を選んで訪ねたい、今回十分な時間が取れなかったところをもう一度訪れたい、と夢は膨らむ。
 

 
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