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宮島と厳島神社----平家一門の繁栄祈願の跡を訪ねる
 松島、天の橋立とともに日本三景に数えられる「安芸の宮島」は、島全体が信仰の対象である。 そして、宮島のシンボルが厳島神社(1996年に世界文化遺産に登録)である。 厳島神社といえば、平安様式の神殿、海中に立つ大鳥居、平清盛が平家一門の栄華を祈願して納めた「平家納経」などが目玉であろう。
 
 私の母校の同窓会は全国を巡回しながら開催しているが、今年は宮島で開かれたので、そのときに撮った写真をここに掲載する。  (2000年11月)
厳島神社の大鳥居

宮島(厳島神社周辺)
広島からJR山陽本線で25分で宮島口へ。 そこから連絡船で10分で宮島に着く。 船中から厳島神社の大鳥居が見える。 「安芸の宮島」は「松島」、「天の橋立」とともに日本三景。
千畳閣  秀吉が戦没将士の慰霊のために建立したが、完成を見ずに死んだ(1598) 応永14年(1407)創建の五重塔
大聖院
明治の神仏分離まで厳島神社の別当院であった
紅葉谷公園
弥山への登山道の入口
海抜530mの弥山山頂から瀬戸内海が見渡せる。 宮島の「花崗岩」 と 「ツガの自然林」は一見に値する。 宮島にいる500頭の鹿は神の使い。
山頂の親子鹿は一幅の日本画である。
弥山山頂近くにある霊火堂の「不消の火」は、弘法大師が焚いた護摩の火が1200年も燃えつづけているという。 宮島は島全体が厳島神社のご神体で、大部分が国有地。 人々は屋根を突き合わせて住んでいる。 島には墓はないという。

厳 島 神 社
 厳島神社の創建は推古元年(593)といわれるが、平安末期に安芸守となった平清盛が、ほぼ現在の形に築いた。(1156) 今回我々は特別に宮司に案内して頂いたが、台風、高潮、塩害等による損傷の修理の苦労が伺えた。 修理の際には古材を60%以上使わなければ国宝の指定を維持できない、檜皮葺きの屋根は20年毎に葺き替えなければならない---
三年ぶりの母校の同窓会
宮司さんに案内して頂いた


満潮時の大鳥居

大鳥居の額は、縦2.7m、横1.8m。海側(上)と神社側(下)の両側に額があるのは珍しい。神社側は万葉仮名である。
干潮時には大鳥居まで歩いていける。鳥居は高さ16m、棟の長さ24m、柱の根回り10m。現在の鳥居は1875年に再建されたもので、清盛の時代から8代目という。
大鳥居から見た神社の全景
本殿 本殿の内部
神社境内にある能楽堂  毛利元就が奉納した。(1568) 平安時代の建物の中に室町時代のものが混在していて違和感は否めない。 これも神社境内にある菅原道真を祭る天神社  ここで連歌が詠まれたという。
暮色の中にシルエットを見せる大鳥居
ライトアップされた回廊
この時刻には満潮にならず、残念。
こちらはうまく海中に

平 家 納 経
 厳島神社はもともと海の神を祭った地方の一神社だった。 それが現在のように名社になったのは、平清盛との出会いがあったからだという。 1146年に安芸守になった清盛は、保元・平治の乱に勝利したのは厳島神社の加護だとして信仰を厚くし、後に清盛を筆頭に平家一門がいわゆる「平家納経」(全33巻)を奉納した。

 厳島神社の宝物館では平家納経は一般公開していないが、幸い特別展示室で33巻中の5巻を見ることができた。 勿論、写真撮影は禁止。 展示された納経の1つに、冒頭の数行を清盛が書き、後を弟頼盛が書きついだ、いわゆる両筆経があった。 清盛の筆跡は正統的で真面目、弟のはのびやかで気楽、と感じられ興味深かった。

 平家一門の繁栄を願って1164年に平家納経を奉納した平家であるが、それから21年後の1185年に壇の浦での源氏との戦に敗れ滅亡した。納経は、清盛の意図とは異なり、美術品として永遠の価値を得ている。古代エジプトのツターカーメン王の黄金マスクのように----  下記の写真は今回の展示と無関係。
        平家納経 薬王品
井上靖ほか監修「日本美を語る6」(ぎょうせい)より引用
       平家納経 勧持品
梅原猛監修「人間の美術5」(学研)より引用

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