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スペイン(2)----アンダルシアカタルニャ地方(バルセロナ)
               を訪ねる
 
 マドリッドをスタートしたスペインの旅の後半は、「銀の道」 を南下してアンダルシア地方に入り、カタルニャ地方へ向かう。アンダルシア地方には、セビーヤ、コルドバ、グラナダといったイスラム時代を色濃く残す町がある。さらに、イベリア半島の南端には、アフリカのモロッコが見えるイギリス領のジブラルタルがある。そこから一気にバルセロナへ飛ぶ。

 今回行けなかった
北部スペインは、ピレネーからサンティアゴ・デ・コンポステラまで「巡礼の道」として、いつか訪ねたい。南のオレンジ実るバレンシア地方も、のんびり滞在してみたい。これらは夢として残しておこう。

以下は、スペインの旅を、2つに分けた中の第2部である。
   
スペイン(1)  マドリッド、カスティーリャ・ラ・マンチャ、
            
カスティーリャ・イ・レオン、エストレマドゥーラ地方
  
 スペイン(2) アンダルシア、カタルニャ地方(バルセロナ)
                                    (2003年4月)
 
サグラダ・ファミリア聖堂
国 名 スペイン
首 都 マドリッド
政 治 立憲君主制
面 積 50万km2 日本の1.4倍
人 口 4,008万人
民 族 スペイン人(カスティリャ人、アンダルシア人、バスク人)72%、カタルニャ人16%、ガリシア人8%
言 語 スペイン語(公用語) カタルニャ語、ガリシア語バスク語
宗 教 カトリック99%
産 業 農業(北部は小麦、ジャガイモ、中西部はオリーブ、南部はブドウ、オレンジ)、牧畜業、水産業、工業、観光業
1人当GNI 1万4860ドル/年 日本の0.41倍
ルート図  赤い部分がスペイン(2)
 

  
セ ビ ー ヤ
 
セビーヤは、カエサルが前45年に占領し、ローマ時代は都市として栄えた。ローマ皇帝のハドリアヌスとトラヤヌスはこの近くの出身。ローマ帝国衰亡後、西ゴート族に占拠されたが、712年にイスラムに占領され、1248年にフェルナンド3世により奪回されるまで、500年間イスラムの支配下にあり、グラナダとともに文化・商業都市として栄えた。
 
スペイン広場
 
1929年に開催されたスペイン・アメリカ博覧会のメイン会場  現在は市庁舎、軍部などに使われている。
 
建物の壁面のアスレホ(彩釉タイル)には、スペイン全土の58都市の歴史上の主な出来事が描かれている
 
アルカサル
 
10〜12世紀のイスラム教徒支配時代の要塞をレコンキスタの後、1362年にペドロ1世が大改築し、
その後代々の王の宮殿として使われた。
 
イスラム建築の天井は、実に美しい。
 
大 聖 堂
 
セビーヤの大聖堂(奥行き128m、幅90m)は、ヴァチカンのサン・ピエトロ寺院、ロンドンのセント・ポール寺院に次いで、世界で3番目に大きい。      コロンブスの棺(?)
1506年になくなり、ドミニカ、キューバを経て、1902年に戻ったという。
 
大聖堂の一角にあるヒラルダの塔  高さ98m ヒラルダの塔の上からの展望
 
昼の聖週間の行列
 
一族郎党でおめかしして参加 市庁舎前の桟敷席を出発 ローマ兵に辱められるキリスト像
 
車 窓 か ら
 
カルメンとドン・ホセが出会い悲劇の物語が始まったタバコ工場
今は、セビーヤ大学法学部校舎
スペイン・アメリカ博覧会の時に建てられた中南米の国(国名は忘れた)のパビリオン  今は、領事館、学校などに使われている。
 
 
フラメンコ・ステージ
 
夜、フラメンコ・ショーを見る。これはカルメンの一場面。ステージ向けにアレンジされたもので、見ていた楽しいが、本物の生々しい情熱に欠ける。
 

  
コ ル ド バ
  
ヨーロッパが「暗黒の中世」と呼ばれた時代に、コルドバには、イスラム教の伝来とともに、古代ギリシアの多くの文献がアラビア語によって伝えられた。これらを学ぼうとする人たちがヨーロッパ中から集まった。11〜13世紀には、アラビア語からラテン語に翻訳され、アリストテレスやプトレマイオスの業績が後世に伝えられた。その意味で、コルドバは、古代世界と中世文化を結ぶ架け橋ともいえる。
  
メスキータ
 
グアダルキビール川にかかるローマ橋の手前から眺めるメスキータ(スペイン語でモスクのこと)
 
         メスキータの入口
785年にモスクが作られ、16世紀にカルロス1世のときキリスト教の大聖堂に改造された。 
 
奥行き178m、幅125mで、世界最大のイスラム寺院。柱の数は850本。この中に大聖堂の建物がすっぽり入っている。
 
 
大聖堂の交差部の天井は16世紀のルネサンス様式、両側はゴシック様式 大聖堂の宝物庫にある聖体顕示台
 
 
旧市街散策
 
迷路のように路地が入り組んだユダヤ人街にある花の小道
 
 
マホメット・アル・ガフェウィの像
(12世紀に初めて白内障の手術をした医者) 
ユダヤ人哲学者兼医師のイモニデスの像
(12世紀にユダヤ教の神学を体系化した人)
 

  
グ ラ ナ ダ
  
イスラム教徒の本拠地だったコルドバとセビーヤがキリスト教徒の手に奪回され、キリスト教徒の国土回復戦争(レコンキスタ)が完了しつつある1238年に、イスラム教徒のグラナダ王国が建国された。その王宮がアルハンブラ宮殿である。1492年、もはやレコンキスタの勢いに抗しきれないと判断した最後の王ボアブディルは、カトリック女王イサベルに城を明渡し、北アフリカに逃れた。グラナダには滅びるものの美しさが感じられる。
 
アルハンブラ宮殿
 
        シエラ・ネバダ山脈を背景にしたアルハンブラ宮殿
宮殿の売店で手に入れた「アルハンブラ物語」(アービング作、江間章子訳)の挿絵の銅版画より。 当日は残念ながら、曇天のため山脈が見えなかった。
 
アルハンブラ宮殿の入口                入口に続く広い円形中庭
実はこの部分は、1526年にカルロス5世が新婚旅行で、ここに宿泊したときに建設を決めた宮殿
 
水と建物の調和が美しいアラヤネスの中庭 ライオンの中庭
 
「アッラーは偉大なり」
と書いてあるという
偶像を禁止するイスラム美術は幾何学的で美しい
 
グラナダ土産の寄木
細工に生かされている
 
      宮殿から望むアルバイシンの丘
キリスト教徒がグラナダをイスラム教徒から奪回するとき、ジプシーを隠密として使ったので、恩賞としてここに住むことを許した。現在でも洞窟に住むジプシーもいて一種の治外法権的な雰囲気がある。
 
アメリカ人作家ワシントン・アービングが、1829年に3ヶ月間アルハンブラ宮殿に滞在した経験と、そこにまつわる歴史・伝説を綴ったのが紀行文学の名作「アルハンブラ物語」。この本がアルハンブラ宮殿を世界に知らしめた功績は極めて大きい。彼が滞在した部屋は今も残されている。
 
「アルハンブラ物語」で紹介された、キリスト教徒の捕虜に恋をした3人の王女の話の舞台は、この塔であろうか。 城外の丘にあるヘネラリフェ庭園は、13世紀に建てられたスペイン・イスラム庭園の代表作
 
大 聖 堂
  
グラナダ陥落後の1518年に、モスクの跡に建てられた大聖堂 白一色に統一された礼拝堂
 
1750年のパイプオルガン
 
  
洞窟フラメンコ
  
 
アルバイシンの洞窟フラメンコを見に行った。踊り子とひざを突き合わせるような狭い部屋で、情熱的な踊りを見ると、「これぞ、ジプシー」と感動する。 アルバイシンから眺める
夜のアルハンブラ宮殿
  

  
スペイン料理
海外旅行の楽しみの1つは、土地の料理である。貧乏旅行では贅沢はできないけれども、それなりに楽しめる。スペインでは魚料理が多く、ワインによく合う。そういえば、メルカード(市場)には、肉屋よりも魚屋の方が多かったようだ。
分ける前にパエリアを見せてくれる パエリア 日本人には味は濃い目  エビのサラダ
子豚の丸焼を皿で切って見せる シーフードのフライは美味かった 地中海のメカジキ 一番美味かった
  

  
ロ ン ダ
  
ロンダは、タホ川が刻んだ深い渓谷の絶景の地である。また、近代闘牛の発祥地として知られている。
  
ロンダへの車中、2重の虹が出た。
 
伝説的名闘牛士ペドロ・ロメロ(1754-1839)の像が、アラメダ・タホ公園にある 闘牛場の入口の両側に、名闘牛士オルドネス父子の像、どちらもヘミングウェイの友人だった
  
闘牛場附属の博物館 闘牛士の正装服 文豪ヘミングウェイは闘牛ファン
  
パノラマ写真の接続に失敗したが、闘牛場の広さを実感して頂ければ、幸い。
  

  
ミ ハ ス
  
地中海を望めるミハスは白い家で有名。ここには、世界一小さな闘牛場がある。偶然にも日曜日のこの日は闘牛が行なわれるというので、入場券を買ってワクワクしながら待つ。
  
市 内 散 策
  
山の中腹にある白い町 地中海が一望できるので別荘も多い。 名物ロバのタクシー
  
世界一小さな闘牛場
  
入場券を買う。 SOLは日向、SOMBRAは日陰。SOLの方が安い。  入場券
 
SOLの席から、SOMBRAの席を眺める。
 
  
銛旗士(バンデリリェロ)が牛の首筋に銛(もり)を打つ。牛を活気付けるためだが、装飾の意味もある。 最後に、剣士(マタドール)がし止める。
 
 
し止められた牛は馬に引かれて場外へ。 マタドールはし止めた牛の耳を持って、アリーナを一周し、観客に挨拶する。 最近は女性マタドールも出場する。
  
マタドールと記念写真  こんなことは小さな闘牛場の特権
  

  
カサーレス
 
ローマ時代に、治療のためここの温泉にカエサルが来たことが、町の名の由来。人口3000人のこの町は、海岸から14km、晴れた日には地中海の彼方にアフリカのモロッコの山々が見える。
 
発電用の風車が沢山見える。向うの山はモロッコ 岩山に立つ古城とその下に連なる白い家々
 

ジブラルタル
 
大西洋と地中海、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸を分かつジブラルタル海峡に突き出た岩山(The Rock、ターリクの山、標高400m)の麓に広がる、長さ4.5km、幅は一番広いところで1.4kmという小さな町が、イギリス領ジブラルタル。スペインの王位継承戦争の際イギリスに占領され、1713年のユトレヒト条約によりイギリス領となった。

スペインの返還要求にもかかわらずイギリスは手放さない。一方ジブラルタルの対岸、アフリカのモロッコのセウタは、モロッコの要求にもかかわらずスペインの統治が続いている。
 
ラ ・ リ ネ ア
 
ジブラルタルのすぐ手前の町。ここから東へコスタ・デル・ソル(太陽の海岸)が300km続く。ここのレストランで食べたメカジキのステーキは最高だった。 三角形の山は、ジブラルタのターリクの山
 
 
ジブラルタル
 
ジブラルタルのスペイン側
パスポートを見せて出国する
    ジブラルタルのイギリス側
ジブラルタルの象徴「ターリクの山」が。
港は軍港というよりも普通の商港のように見えた。
 
         ジブラルタルの町内はさながらイギリス
ここでは通貨はポンド、表示はすべて英語である。おまわりさんは気軽にカメラに収まってくれた。 
 アフリカの山を眺める望郷の猿
ターリクの山には猿が多い。イスラム時代にアフリカから移入された。
ジブラルタルを観光した後、スペイン側に戻り、近くのマラガ空港からバルセロナへ向かった。

バルセロナ
 
スペインのカタルニャ地方には、独自の歴史と文化があるという。言葉もスペイン語と違うカタルニャ語を使う人が多い。

イスラム教徒がイベリア半島の大半を支配していた801年、カール大帝率いるフランク軍がバルセロナを奪回し、カタルニャはフランク王国の版図に組み入れられたが、その後独立した。イスラムの進んだ文化を取り入れたバルセロナ伯国は13〜14世紀には黄金時代を迎えた。

1492年にカトリック両王がレコンキスタ(キリスト教徒による国土回復戦争)を完了すると、権力の中心が半島中央部に移り、カタルニャは衰退していく。しかし、18世紀以降目覚しい経済発展を遂げ、ガウディ、ピカソらの革新的な芸術運動も盛んになり、1977年にはカタルニャは念願の自治権を獲得した。
その首都がバルセロナである。
 
ホテル周辺で
  
ホテルの隣にある3本の煙突は元火力発電所のもの。発電所は移転したが、歴史的建造物として保存されている。
 
バロセロナでは1階は商店、2階は事務所、3階以上はアパートというビルが多い。 「アパートから500m以内にマーケットがあること」 という法律があるらしい。 これはスペイン最大の貯蓄銀行。店舗が多く、100mしか離れていないこともある。サマランチ元国際オリンピック委員会(IOC)会長が経営しているという。 
  
グ エ ル 公 園
  
天才ガウディの想像力と自然美が一体となったこの公園は、1984年にユネスコの世界文化遺産に認定された。実は、ここは未来の住宅地として造られたものだが、資金面などの問題があって中止され、跡地を公園にしたもの。一見奇抜に感じられるガウディのアイデアであるが、心地よさに感心する。
  
右はガウディが設計したアパート。「自然は曲線である」という考えでデザインされている。 ガウディが設計したグエル公園の入口
ここにもガウディ独特の曲線が多用されている。
 
天然の花瓶をイメージした石の回廊 石の回廊の中は散歩道になっている
 
グエル公園の中央広場にある波捲ベンチ ベンチの座り心地はなかなかグー
  
サグラダ・ファミリア聖堂
 
サグラダ・ファミリア聖堂(聖家族教会)は、ガウディが1883年31歳のときに主任建築家に指名され、1926年73歳のときに交通事故に遭いその生涯を終えるまで、精魂を傾けた最も重要な作品である。ガウディは「構想」の大部分を生前に完成させていたが、生前に完成したのは、「誕生のファサード」と一部の尖塔のみであった。現在、後継者たちの手で「受難のファサード」がすでに完成している。

サグラダ・ファミリア聖堂は「建築中のところを金を取って見せる唯一の教会」といわれる。観光客が支払う見学料が主たる財源というから、すべてが完成するには、あと200年かかるともいわれる。しかしヨーロッパには数百年かかって建築された聖堂は珍しくない。なんでも2〜3年でやらなければ気がすまない日本人の考え方の方が、世界的には珍しいともいえよう。
 
誕生のファサード側から見た聖堂の全景
左側が、完成すれば主正面の「栄光のファサード」になる
 
誕生のファサード 受難のファサード
 
サグラダ・ファミリア聖堂は「建築中の聖堂」である。聖堂の中ではデザイナーが模型を前にディスカッションしているし、内外ではクレーンが動いている。鐘塔はエレベータでも登れるが、らせん階段を途中の小窓から時々外を見ながら一歩一歩登ると、天国に上るような不思議な気持ちになる。
 
ピカソ美術館
 
絵画史においてピカソに匹敵する者といえば、レオナルド・ダ・ビンチ、ジオット、ベラスケス、ゴヤといった、それぞれの時代において創造の概念を一新し、造形芸術の分野で新しい道を開拓した人々であろう。1881年にスペイン南部のマラガに生まれたピカソは、画学校の教師であった父の薫陶を得て、少年期から途方もない早熟の才能を示した。

バルセロナのピカソ美術館には、「少年時代」、「青の時代」、「ばらの時代」、「キュウビスム」、「シュールレアリスム」、「版画、陶芸、彫刻」などの作品が多数展示されている。残念ながら、全面撮影禁止のため、以下の画像はすべて絵葉書による。
 
貴族の館を利用したピカソ美術館
  
科学と慈悲(1897年16歳)
ピカソはこの作品でマドリッド美術学校の総展覧会で名誉賞を得た。
 
 曲が終って(1901年20歳)
「青の時代」の作品 このパステル画には、若いにも拘らずロートレック的な苦悩の色を感じる。
             官女たち(1957年76歳)
ベラスケスの同名の絵を素にして、ピカソの世界を描いている。ベラスケスについては本ホームページのスペイン(1)のプラド美術館を参照して下さい) 
 
カタルニャ美術館
 
港のそばにある標高173mのモンジュイックの丘に、カタルニャ美術館がある。この美術館は3つの部門からなるが、圧巻は11〜13世紀のロマネスク壁画を集めた第1部門で、その大部分はピレネー地方の聖堂から集めたものである。その他第2部門のゴシック美術も素晴らしい。残念ながら、ここも全面撮影禁止のため、以下の画像は絵葉書による。
 
モンジュイックの丘から眺めるバルセロナ港 モンジュイックの丘に建つカタルニャ美術館
 
サン・クリメンテ聖堂の「全能のキリスト」 サンタ・マリア聖堂の「キリストの誕生」
 
ランブラス通りで
 
バルセロナ旧市街の中心カタルニャ広場と港を結ぶ旧市街の目抜き通り。因みに「ランブラ」とは水の流れを意味するアラビア語の「ラムラ」に由来するという。通りの下は、かつては旧市街に水を供給する水路だった。通りの両側には、名物の花屋のほか、小鳥を売る店、市場などがあり、そぞろ歩きが楽しい。
 
通りには花屋さんが並ぶ
 
バルセロナ最大規模のサン・ジュセップ市場を覗く
 
果物屋 八百屋 魚屋 肉屋
 
夕暮れのランブラス通りを散歩する。カタルニャ広場から南下すると、港にぶつかるところにコロンブスの塔がある。
1888年にバルセロナ万博を記念して建てられたもの。
 

 
バルセロナ空港の朝焼け
 
バルセロナで最後の夜を過ごし、翌日早朝空港に向かった。思い出せば15日間のスペインの旅は、美術鑑賞と歴史探訪の旅であった。何よりも感動したことは、スペインが、ゴヤやピカソ、ガウディのような天才的芸術家を生み、育てたことである。もう1つはローマ時代、中世、そして現代の建造物を大事に保存していることである。現在のスペインには、かつての大航海時代のような世界を席巻する力はないけれども、世界経済の中で第8位を占める立派な工業国である。将来のスペインを暗示するような見事な朝焼けの中で、空港を発ち、帰国の途についた。

              スペイン(1)も合せてご覧下さい
 

 
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