西田進のホームページ
のトップへ戻る
スペイン(1)----マドリッド、カスティーリャ・ラ・マンチャ、
      カスティーリャ・イ・レオン、エストレマドゥーラ地方を訪ねる
  
 訪ねたことのない国でも、イメージだけは持っていることが多い。スペインといえば、カルメン、フラメンコ、闘牛、ドン・キホーテ、などを思い浮かべる。美術好きの人なら、プラド美術館、ゴヤ、エル・グレコ、ピカソなどを、歴史好きの人なら、コロンブス、無敵艦隊、近くはフランコ独裁政権などが記憶にあるだろう。

 西洋の歴史を時代順に訪ねる私の旅は、エジプトに始まり、ギリシア、イタリア、トルコを経て、スペインの番になった。例によって、私なりにスペインの歴史を、大胆に8つの時代に分けてみた。

@ アルタミラの洞窟に代表される
旧石器時代
A ポエニ戦争(前264〜前201)以後600年続いた
ローマ支配時代
  ローマの皇帝ハドリアヌス、トラヤヌスはいずれもスペイン出身
B 西ゴート人が侵入しトレドを首都にした。
西ゴート人支配時代
C 711年にイスラム教徒が侵入し、イベリア半島に800年間イスラム文化の
  華を咲かせた
イスラム時代
D1212年キリスト教徒の反撃が始まった。カスティーリャ王女イサベラとアラ
  ゴン王太子フェルナンドが結婚し、スペインが統一された。1492年グラナ
  ダが奪還され、国土回復戦争が完了するまでの
レコンキスタ時代
E1492年のコロンブスによる新大陸発見と中南米植民地支配で繁栄した
  
大航海時代
F1588年に無敵艦隊がイギリスに敗れ制海権を奪われ、国内ではフランス
  の侵略を受ける
弱体化時代
Gスペイン内戦に勝利したフランコ将軍による独裁体制の後、立憲君主国とし
  て再出発。現在はEUの一員で、世界第8位の
工業大国時代

 ともあれ、ユーラシア旅行社のツアーに妻と二人で参加した14泊15日のスペインの旅を、次の2部に分けて掲載しよう。
   
スペイン(1)  マドリッド、カスティーリャ・ラ・マンチャ、
            
カスティーリャ・イ・レオン、エストレマドゥーラ地方
  
 スペイン(2) アンダルシア、カタルニャ地方(バルセロナ)
順次ご覧下さい。                        (2003年4月)
ラ・マンチャ地方の風車は、
ドン・キホーテの世界
国 名 スペイン
首 都 マドリッド
政 治 立憲君主制
面 積 50万km2 日本の1.4倍
人 口 4,008万人
民 族 スペイン人(カスティリャ人、アンダルシア人、バスク人)72%、カタルニャ人16%、ガリシア人8%
言 語 スペイン語(公用語) カタルニャ語、ガリシア語バスク語
宗 教 カトリック99%
産 業 農業(北部は小麦、ジャガイモ、中西部はオリーブ、南部はブドウ、オレンジ)、牧畜業、水産業、工業、観光業
1人当GNI 1万4860ドル/年 日本の0.41倍
ルート図  赤い部分がスペイン(1)
 

  
マ ド リ ッ ド
 
スペインの首都マドリッドは、スペインの都市の中では比較的新しく、フェリペ2世が1561年にスペイン王国の首都に定めてから、その歴史が始まった。外務省の海外危険情報によると首締め強盗の被害が多く発生するというが、スペインの文化を知る上で欠かせない都市である。
 
      コロン広場に建つコロンブスの像
スペイン中にコロンブスの像がある。コロンブスはいうまでもなくアメリカ大陸発見者(正しくは西インド諸島の再発見者)。彼はイタリアの航海者で、スペイン名はコロン。スペインのカスティリア女王イサベル1世の援助を得て、1492年にバハマ諸島に到着した。
 
スペイン広場
 
騎士ドン・キホーテと従者サンチョ・パンサの銅像の後で二人を見下ろしているのは、小説「ドン・キホーテ」の作者のセルバンテスの大理石像。この写真では分り難いが、その記念碑の一番上から見下ろしているのは、この物語を読む世界の人々である。そしてこの記念碑の裏にはスペインを統一したイザベル女王の像がある。
  
王  宮
  
ハプスブルグ朝の王宮は、1734年に焼失し、イタリアの建築家により1764年に再建された。外観は簡素な後期バロックおよびネオクラシック様式であるが、内部は豪華絢爛な「玉座の間」などがあるが、撮影禁止。なお、王宮の外壁にプレートがあり標高642.3mにあることを示している。
  
ソフィア王妃芸術センター
  
20世紀の現代美術を集めた美術館で、有名なピカソのゲルニカが展示されているので、見に行った。
 
                 ピカソのゲルニカ(撮影禁止のため絵葉書による)
1936年にスペイン内戦が勃発し、スペイン北部バスク地方の古い町ゲルニカが反乱軍を支援するナチス・ドイツによって空爆されると、ピカソはこれに激しく抗議して大作「ゲルニカ」を描き、翌年パリで開催された万国博に出品した。彼は、フランコ体制に反対して、生涯スペインに戻ることはなかった。この絵は彼が信頼した画商に預けられ、フランコ体制が崩壊した後、スペイン国民のものとなったという。この芸術センターでは、ピカソの他、ダリ、ミロなどスペインが生んだ現代画家の作品が多く見られる。
  
国立考古学博物館
  
この建物はコロンブスのアメリカ大陸発見
400周年を記念した1892年に建てられ、国立図書館と隣り合わせである。
  エルチェの貴婦人
前5〜6世紀と考えられる石灰岩の像は国宝級
スペイン語が分らないので正確ではないが、前5世紀ごろのものらしい。
  
博物館の庭の地下に「アルタミラの洞窟壁画」の一部が復元されている。スペイン北部の町アルタミラにある旧石器時代後期の洞窟は現在閉鎖されている。野牛を描いたこの壁画は、1879年に偶然発見された。レプリカとはいいながら、1万5千年前にタイムスリップした気分になる。
 
プラド美術館
 
今回のマドリッド訪問の目玉の1つが、プラド美術館の見学である。ゴヤ、グレコ、ベラスケスなどの、スペイン絵画が一堂に集められている。幸いこの美術館はノーフラッシュでの撮影が可能という有難いところである。
 
                    プラド美術館の裏玄関とゴヤの銅像
ここの美術館は、英国やフランスの博物館と異なり、外国から奪ってきたものではなく
、王室がお金で集めたものだというのが誇りだそうだ。いずれにしても、世界一の美術館で有名な絵画を身近に鑑賞できるのは感激ものである。
 
ゴ  ヤ
 
ゴヤほど変化に富んだ作品を残した画家を私は知らない。「ゴヤは、誘惑し、動揺させ、感動させ、狂わせ、惹きつけ、拒絶し、我々の感覚を変化させ、彼の創造した果てしないマグマの世界へ我々を沈める」(Escudo de Oro プラド美術館より) ここでは、時代を追ってゴヤの作品を堪能するほど鑑賞することができた。
 
                 日傘
1763年生まれのゴヤは若い頃から、多くのタペストリー(壁を飾る織物)の下絵を描いた。これもその1つ。
 オスナ公爵夫妻とその子供達
ゴヤは次第に宮庭画家としての地位を獲得していく。
 
                   マリア・ルイサ騎上の肖像
マリア・ルイサは、従兄妹のカルロス4世と結婚した悪名高いスペイン王妃である。何もできない無能な王に代って、彼女とその愛人ゴドイ将軍が実権を握っていた。彼女は子宝に恵まれたが、何人かはゴドイ将軍の子ではないかといわれている。晩年の彼女は歯が抜け落ちていたのを見逃さずに描写したゴヤは、はたして宮廷に好まれたであろうか。
 
                   「裸のマハ」(1797年) と 「着衣のマハ」(1798年)
ゴヤは、日頃は「裸のマハ」を掲げ、来客が来るとその上を「着衣のマハ」で覆い隠したとか、モデルは誰かなど、この絵にまつわる伝説は多い。「マハ」とは「いい女」という意味らしい。
 
やがて、病を得た彼は次第に孤独感を深めていく。それと同時に、逆境の中でこそ発揮される人間の勇気と崇高さを見るようになる。悲惨なスペイン独立戦争の様子を描いたゴヤの代表作「マドリッド1808年5月3日の銃殺」では、武装蜂起した人たちが処刑されるシーンを描き出している。 プラド美術館では、絵画を模写している風景によく出くわす。画学生から老画家までいろいろ。館の許可を得ているのだろうが、おおらかで気持ちがいい。もちろん絵にはガラスは嵌めてなく、間近まで近寄って、タッチを見ることができる。
 
グ レ コ
 
ゴヤ、ベラスケスと並んでスペイン絵画の三大巨匠といわれるグレコは、実は1541年クレタ島の生まれである。「エル・グレコ」という名も単に「ギリシア人」という意味の俗称である。1582年にフェリペ2世の注文で描いた絵が不興で、宮廷画家への道を閉ざされた彼は、第二の故郷としてトレドを見出す。ここで、彼は多くの宗教画を残した。
 
胸に手を置く騎士の肖像 磔刑の図 三位一体
 
ベラスケス
 
宮廷画家としてのベラスケスの仕事は王族の肖像を描くことであった。彼の絵の特徴は、透視図法を駆使し、光と影を効果的に用いた室内描写にある。彼の一生は、芸術家というよりも国王の忠実な従者として、職務を全うした一宮廷人の生涯ともいえる。プラド美術館では数多くの驚嘆すべき彼の絵に接することができた。
 
        官女たち(1656年)
ピカソはこの絵を素にしてシューリアリズムの絵を描いた。(バロセロナのピカソ美術館にある)
       マルガリータ王女
ベラスケスは、左の絵の中心にいるマルガリータ王女の肖像を何枚も描いている。
 
その他の画家
 
アンジェリコの受胎告知 ルーベンスの三美神
 

  
ア ビ ラ
  
マドリッドから北西へ、グレドス山脈とグァダラマ山脈の間を抜けてカステーリャ地方のアビラに行く。この町は城壁に囲まれ、さながら中世にタイムスリップしたようだ。
 
アビラへの道
 
この山地から冬季オリンピックの選手も出たという。スペインの高速道路は原則無料、トンネル部分などは有料とのこと。 サンタ・テレサが聖母マリアと出会った聖地とされ、4本の柱が立っている。
 
アビラの旧市街へは
 サン・ヴィセンテ門から入る。
 
 
 
大 聖 堂
 
大聖堂
明日(4月13日)からの聖週間で使うキリストやマリアの山車の準備が行なわれていた。
 
サンタ・テレサ修道院
 
    サンタ・テレサ修道院附属教会
1982年にヨハネ・パウロ2世か訪れたときのパウロの椅子があった。
  サンタ・テレサの日記の拡大レプリカ
彼女は1515年に生まれた。信者には有難いものだろう。
 

 
セ ゴ ビ ア
 
アビラから少し北東に走ったところにあるセゴビアは、ローマ時代の遺跡とディズニーの白雪姫のお城で有名である。
  
ロ ー マ 水 道 橋
 
          アソゲホ広場にあるローマ水道橋
1世紀後半から2世紀前半に作られた巨大な水道橋は、全長728mに及び、高さは最も高いところで29mに達する。アーチの数は167個、1884年まではセゴビアの町に水を供給していた。
 
5枚の写真をパノラマに合成
 
大 聖 堂
 
スペイン最後のゴシック式大聖堂で、「カテドラルの貴婦人」と呼ばれている。1525年に建築が始まり、1768年に完成した。
  
ア ル カ サ ル
 
ディズニーの白雪姫のお城のモデルになった城。偶然、結婚式を済ませたカップルに出会った.
 
      衛兵の間
騎士の鎧はトレドで加工された。この技術が、現在のトレド細工に生かされている。
 
     アラベスク装飾の間
イサベル女王の「女王宣言」の場面が描かれた絵がある。
 
 
       玉座の間
1469年にイサベル女王(カスティーリャ王国)とフェルナンド5世(アラゴン王国)が結婚して統一スペインが生まれた。
  

  
チ ン チ ョ ン
  
マドリッドの南東45kmにある小さな町。マヨール広場から丘の上の教会まで朝の散歩をした。
  
    マヨール広場(ここは仮設の闘牛場になることもあるという)
朝早すぎて広場に人影はない。開いている店を見つけて、名物のアニス酒を1杯飲む。アニス(セリ科の多年草)を漬け込んだ酒で南欧に多い。ギリシアのウゾ、トルコのラキアも同じようなもの。
  アニス酒
旅行をするといつも一口注文する。
チンチョン名物魔除けのニンニクを窓からぶら下げた家
  

  
アランフェス
  
荒地が多いカスティーリャ地方の中で、珍しく沃野にあるアランフェスは古くから王家の保養地として使われた。王宮はスペイン絶頂期の16世紀にフェリペ2世が建築を命じ、18世紀後半のカルロス3世の時代に完成した。丁度バブルの絶頂期に注文して、どん底に完成したようなものだが、タイムスパンは日本とは比較にならない。王宮の内部には、18世紀以降のブルボン朝時代のフランス風の家具や調度品が溢れている。
  
                     王宮の正面
  
音楽の間 女王(王妃)の寝室 玉座の間
  
王宮に隣接した庭園は、タホ川沿いにあり、優雅な舟遊びの様が目に浮かぶ。
  

  
コンスエグラ
  
スティーリャは広大で、マドリッドを挟んで北のカスティーリャ・レオン地方と南のカスティーリャ・ラ・マンチャ地方がある。カスティーリャ・ラ・マンチャを有名にしたのは、いうまでもなくセルバンテスである。ここは比較的気候が温和で、ドン・キホーテがのんびりと旅をしたのも肯ける。
  
ブドウ畑が広がる平原に突き出た丘の上に10基の風車と12世紀の城跡が見える。 丘に上がると風車は見上げるように大きい。ドン・キホーテが巨人と間違えたのも道理。
  
風車は専ら小麦を挽いていたという。             風車小屋から眺めるラマンチャ地方
荒地かと思っていたら、結構緑が多い。それにしても風が強い場所である。
  

  
ト レ ド
 
「スペインで1日滞在できるなら、迷うことなくトレドへ行きなさい」 という格言があるそうだ。それぼど魅力的な町である。トレドは近代スペインが成立するまで、もっとも文化が栄え、多くの文明が交差して重層をなした歴史的な町であり、エル・グレコの町としても知られている。

トレドの名は、前192年にここを占拠したローマ人がつけた 「トレトゥム」 に由来する。民族大移動期の569年に、西ゴート王国の首都となった。711年にイベリア半島に侵入してきたイスラム人は直ちにトレドを占領し、1085年にキリスト教徒に奪還されるまで、イスラム文化の華を咲かせた。

その後、トレドはカスティーリャ王国の首都となり、ここの翻訳学校でアラビア語やヘブライ語の古典がキリスト教世界に紹介された。キリスト教文化は、この町で、イスラム、ユダヤの二大文化と共生・融合したのである。
 
旧市街遠望
  
タホ川のほとりの段丘に立つトレドの景観
エル・グレコの絵で有名な景色。中央に大聖堂、右にアルカサル(城)が見える
  
                    アルカサル
11世紀にトレドを再征服したアルフォンソ6世が要塞を築いたのが始まりで、近くは1936年の市民戦争でフランコ軍が72日間にわたって篭城した。
  
大 聖 堂
  
トレドの道は狭く入り組んでいる。路地から大聖堂が見えた。町の散策は独特の雰囲気が楽しい。 フランス・ゴシック様式のこの大寺院はフェルナンド3世の命令で1226年に建設が始められ、1493年に完成した。
  
サント・トメ教会
  
サント・トメ教会附属の建物で、エル・グレコの「オルガス伯爵の埋葬」を見る。(撮影禁止のため、絵葉書から複写) サント・トメ教会の創設に貢献(出資)したオルガス伯爵の死後、聖ステファノスと聖アウグスティヌスが地上に現れて遺骸を埋葬したという奇跡を描いた作品。
  
タベーラ病院
  
 ビサグラ門の外にあるタベーラ病院は1541年の創設。
 現在は、この中に美術館がある。
グレコの「聖家族」
 
  
ト レ ド 散 策
  
ダビデの星は6稜
イスラムの星は8稜
グレコの家は修復中
 
 
ユダヤ系の施設らしく、ダビデの星の絵皿を売っていた。隣の家はイスラム系らしく、窓の板戸にイスラムの星の飾りがついていた。ここでは永年、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒が共存しているという。
  

  
グァダルーペ
  
8世紀、イスラム教徒の侵略から逃れる際、黒い聖母マリア像を川辺に埋めた。1320年に一人の羊飼いがいなくなった羊を探しているとき聖母マリアと対面し、いなくなった羊についてお告げを受けた。お告げどおりに掘ったところ黒い聖母像(黒マリア)を発見、民衆の崇拝の的となった。コロンブスをはじめ、大航海時代の船乗りたちは、出航前にここで祈りを捧げたという。
 
王立修道院とその中に祭られている黒マリア(絵葉書より複写)
 

  
トルヒージョ
  
オリーブしか育たない荒涼としたエストレマドゥーラの大地の真ん中の小高い丘の上にトルヒージョの町がある。この町は16世紀に多くのコンキスタドーレス(征服者)や冒険家を出したことで知られる。なぜこの町が? 進取の気象に富んでいたのか、食いっぱぐれて失うものがなかったのか、多分その両方ではなかっただろうか。

ペルーの征服者フランシスコ・ピサロ(1475〜1541)はその代表で、豚飼い出身の彼はペルーで殺戮や略奪を繰り返し、インカ帝国を征服した。やがて銀山が発見され銀はスペインの繁栄を支えたが、鉱山の掘り尽くしとともにスペインは凋落していった。
  
マヨール広場にあるペルーを征服したピサロの騎馬像 思いがけない大雨に会い、ピサロ博物館(現在は博物館)で雨宿り 南米経営で冨をなしたサン・カルロス公爵邸
  
コンキスタ公爵邸
ピサロと夫人の像 
アマゾン探検家
フランシスコ・デ・オレリャ 
キリスト教徒の攻撃に備えたイスラム教徒の城塞。ここから荒涼とした大地が見渡せる。
 

  
メ リ ダ
 
メリダは、前25年にローマ帝国の属州ルシタニアの首都として建設された。「小ローマ」と呼ばれるだけに、スペイン最大のローマ時代の遺跡が残っている。地中海沿岸はどこの国にもローマ時代の遺跡があり、その国の歴史として保存されていることは驚くべきことである。メリダにも素晴らしい国立ローマ博物館がある。
  
パ ラ ド ー ル
  
パラドールは、古いお城や領主の館、あるいは由緒ある修道院などを国営の一流ホテルにしたもの。今回の旅ではメリダで宿泊したほか、何箇所かで昼食をした。
  
裏庭と駐車場 廊下は何となく修道院風 狭いながらも落ち着く部屋
  
ローマの遺跡
  
ローマ橋 ローマ水道橋と現代の鉄道
  
ローマ劇場
前24年にアウグストゥス帝の女婿により建造 
円形闘技場
前1世紀頃建造。剣闘士や野獣の戦いが行なわれた
  
国立ローマ博物館
  
博物館の正面
 
博物館の内部
なかなかユニークな建物
  
古代のガラス製品
壁に付けられた巨大なモザイク 古代の土器
  
夜の聖週間の行列
  
メリダのパラドールで、夜の聖週間の行列を見ることができた。
  
十字架のついた旗を持った人が先頭を歩く 悲しげな音楽を奏でる楽士が続く  音楽に合せてゆっくりと左右にれながら進む ゴルゴダの丘に登るキリストの像 最後に悲しみの聖母マリアの像
  

  
カ セ レ ス
  
スペインには古い町が多いが、カセレスほど中世の町並みが残っているところは少ない。もともとケルトの集落だったが、前54年にローマ人が占領した。西ゴート時代を経てイスラムの征服を受け、1220年にレオンのアルフォンソ9世が再征服した。15〜16世紀の中世のゴシック建築が残るこの町は、「エストレマドゥーラの宝石」とも呼ばれる。
  
マヨール広場から、「流星の門」を通って旧市街に入る サンチャゴ教会は、聖ヤコブを祀る12世紀の教会を16世紀に改修したもの
  
城壁の中に15〜16世紀の貴族の館が並ぶ。館の正面には家紋が装飾されている。
  

 
オリーブ と カシ
スペイン中部より北では、カシの木が多い。 よく見ると幹の下半分の樹皮が剥がされている。 コルクガシからコルク組織を採ったからである。 カシの実であるドングリは飼料になる。 特に、ドングリで育った黒豚の生ハムは最高だそうだ。

一方、中部より南では、オリーブの木が多い。 スペインのオリーブ生産量はギリシア、イタリアを抜いて世界一である。 95%がオリーブ油になる。
コルクガシの木 オリーブの木
 
マドリッドをスタートしてエストレマドゥーラ地方まで来た我々は、さらにアンダルシア地方へと 「銀の道」 を南下した。

           
引き続き、スペイン(2)をご覧下さい
 

 
海外の歴史と文化の
一覧表へ戻る
次へ
nsdssmhp ホームページの中で検索したい
サーチ
ホームページの中で道に迷ったら
サイト
マップ

nsdssmhp