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 インド(2) --- カジュラホの寺院群、ミトゥナ像、サールナート、ガンジス川の礼拝と沐浴
         アグラ、タージ・マハル、アンベール城、ジャイプル、デリー、ラール・キラーなど


 インド旅行の後半にも見どころは多い。カジュラホにあるヒンドゥー教の寺院群は官能的なミトゥナ像で有名である。インドの青空の下に繰り広げられるエロチシズムは、生命を内に秘める宗教的な感動すら覚える。撮影した多くの写真をお楽しみください。

 アグラ城、アンベール城、ファテープル・スィークリー、ラール・キラー(レッド・フォート)は、いずれも16世紀から18世紀に栄えたトルコ系イスラーム王朝ムガル帝国の城跡である。赤砂岩の男性的な容貌の都城は、富と権力の象徴である。方や、タージ・マハルは、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが愛妃のために22年の歳月を費やして建てた白大理石の世界一豪華な墓で、インドの観光地人気NO.1である。皇帝シャー・ジャハーン自身は、川の対岸に自分の墓を黒大理石で造る計画であったが、帝位を狙う三男によりアグラ城に幽閉され、叶わぬ夢となった。

 ピンクシティの名で知られるジャイプルは、旧市街の街並みがすべて赤みがかった壁面でできており青空に映えて華やぐ。ここではハワー・マハル(風の宮殿)、ジャンタル・マンタル(天文台)などを見学する。1728年に造った天文台には沢山の観測儀が設置され、テーマパークに遊ぶような楽しさがある。

 最後に訪ねるデリーは、もちろんインドの首都であるが、見るべきものが多い。クトゥブ・ミーナールは、インド最初のイスラーム王朝である奴隷王朝(1206~1290年)のスルタンが、ヒンドゥー教徒に対する勝利を記念して建てたもの。塔は世界最高の高さ72.7mを誇る。またムガル帝国2代皇帝フマユーンの霊廟は、タージ・マハルの原型といわれる。これらの寺院群、城跡、霊廟、天文台などはすべて世界遺産に登録されている。

 今回のインドの旅で深く印象に残ったものの1つは、ガンジス川で行われる「夜のプージャー(礼拝)」と「早朝の沐浴」であろう。ヒンドゥーの信仰によれば、ガンジス川の聖なる水で沐浴すればすべての罪は清められ、ここで死んで遺灰がガンジス川に流されれば輪廻からの解脱が得られるという。日本における日常生活から全く離れた世界に過ごした13日間であった。

インド(1)は、ムンバイ、エレファンタ島、オーランガバード、エローラとアジャンタ
       石窟寺院、ビンベトカ岩陰遺跡
、サーンチーの仏教遺跡などでした。


インド(2)は、カジュラホの寺院群、サールナート、ガンジス川の礼拝と沐浴、アグラ、
          タージ・マハル、アンベール城、ジャイプル、デリー、ラール・キラーなど
です。

合せてご覧下さい。                                 (2016年5月)


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 慣用的には「ビ
も用いました。原則的には「地球の歩き方」の表示に準拠しました。
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            タージ・マハル
ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、1631年に死去した愛妃ムムターズ・マハルのため建設した総大理石の墓廟である。インド・イスラーム文化の代表的建築といわれている。1632年着工、1653年竣工。1983年にユネスコの世界遺産に登録された。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

インド共和国とその周辺国
 ◍ 首都   日本との時差 : 日本より3.5時間遅れ


インド共和国の概要
国 名 インド共和国
国 旗
首 都 デリー
政 治 大統領を元首とする議員内閣制、連邦議会と州議会で構成
1947年イギリスから独立
1945年国連加盟
面 積

327万7590km
(日本の8.7倍)

人 口

13億1000万人(日本の10.3倍)
インド・アーリア人72%、ドラヴィダ人25%、モンゴロイドその他3%

言 語

ヒンディー語(連邦公用語)、英語(第二公用語)
州の公用語(英語とヒンディー語など)

宗 教 ヒンドゥー教80.5%、イスラム教13.4%、キリスト教2.3%、シク教1.9%、仏教0.8%、
ジャイナ教0.4%、ゾロアスター教0.02%
産 業 農業をはじめとする第一次産業は、世界第2位の規模を誇り、植物育種や灌漑設備の整備、農薬の普及といった「緑の革命」を実施し、独立後60年あまりで人口が12億人にまで増えたにもかかわらず、自給自足達成国となった。米輸出国。主な農産物は米 、小麦 、卵、綿花、カシューナッツ、マンゴー、サトウキビ、ココナッツ、茶など。農業は労働人口の52%が従事し、GDPの16%を占めるインド経済の中心である。

インドは世界第14位の工業生産国であり、2007年において工業でGDPの27.6%、労働力の17%を占める。製造業の花形である輸送機械産業はオートバイ、スクーター、オート三輪の生産が盛んである。二輪車市場は2012年には中国を抜いて世界第1位であり1300万台以上。自動車は、タタ・モーターズなどの地場資本の自動車メーカーの他、スズキなどが、地場資本と提携する形で進出している。自動車生産は2011年には393万台で世界第6位で輸出もしている。石油製品は需要を上回る生産能力を保有するようになり、今日では石油製品の輸出国となっている。

インドは先進国企業の情報技術導入が進むなかで、ソフトウェアの開発および販売、欧米企業の情報技術関連業務のアウトソーシングの受注を拡大させている。ソフトウェア産業は2003年時点では国内GDPの2.6%を占めるまでに至っている。
GDP
2015年

2.09兆米ドル/年 (日本の51%、世界7位)
1人当たりGDP1,617米ドル/年人 (日本の1/20、世界143位)



インドの旅の宿泊地と主要訪問地のGPS地図
青線はGPSによる軌跡)    は移動方向
 
①②などは宿泊地  成田~⑥はインド(1) (前の頁です)  ⑦~成田はインド(2) (この頁です)




7日目
(11月29日)
 カジュラホのホテル西の寺院群東の寺院群カジュラホ空港ダメクストゥーパ
                ムルガンダクティ寺院ガンジス川夜のプージャベナレスのホテル(泊)

カジュラホのホテル

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昨日泊まったカジュラホのラディソン・ホテル ホテルを出発する



カジュラーホーの寺院群(西群)

10世紀初頭から12世紀末ごろのチャンデーラ朝時代に、カジュラーホーでは、85ヶ所に及ぶ寺院が建設された。カジュラーホーの寺院群は細い釣鐘状の塔(その上部をシカラと呼ぶ)を有する北方式の典型を示している。現存しているのは25ヶ所のみで、東西約2キロ、南北約3キロの約6平方キロの範囲に分布している。2か所のヒンドゥー教寺院で構成される南群、ジャイナ教寺院が主体の東群、ヒンドゥー教寺院のみで構成されよく建造物が残存している西群の3つの寺院群にわけられる。ヒンドゥー教かジャイナ教かによって建築や彫刻に極端な差はほとんどみられず、ミトゥナ像(男女交合のエロティックな彫刻)を含む官能的なレリーフも共通して見られ、いずれも豊穣祈願が込められていると考えられている。西群、東群、南群合わせて1986年に世界遺産に登録された。

西群へのアプロ-チ

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カジュラーホーの寺院群(西群)の入口にある世界遺産の標識

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パナルヴァティ寺院は、19世紀に建立された新しい寺院。
異教徒との融和をはかるため、屋根は3種類の形をしている。
右から、イスラム教のドーム、仏教のストゥーパ、ヒンドゥー教のシカラ
一番左の塔(シカラ)の上の動物の飾りは犬か
 
 

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ヴィシュヴァナータ寺院(1002年建立) 屋根の上の動物の飾りはライオンか



ラクシュマナ寺院

ラクシュマナ寺院は、954年にラクシュマナ王が建立したヴィシュヌ神を祀る寺院。基壇の側面に50mにわたって彫られた彫刻は圧巻である。行列や戦争場面の中にもミトゥナもある。

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ラクシュマナ寺院 ラクシュマナ寺院の小さな祠、入口の彫刻が面白い

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寺院にはミトゥナ像が一杯
 
ミトゥナ像
 
ゾウさんが右手に筆を持ち
ラブレターを書いている 

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ミトゥナ像の数々、横にいる神様の無表情さが面白い

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ラクシュマナ寺院の基壇の側面に50mにわたって彫られた彫刻
 
基壇の横に赤色花崗岩の露頭があるが、
彼らにとっては硬すぎて彫刻できなかったという

クリックすると拡大し、左右にスクロールして、ご覧になれます

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騎馬行列 ミトゥナ像

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支配者の生活 支配者の生活

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戦争の場面 戦争の場面

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ラクダを使った戦争場面 ゾウを使った戦争場面



ヴァラーハ寺院

ヴァラーハ寺院、10世紀初頭に建立された寺院で、
ヴィシュヌ神の化身の1つであるイノシシが祀られている。

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ヴァラーハ寺院の小祠堂 ヴィシュヌ神の化身の1つであるイノシシ



カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院

マハーデーヴァはシヴァ神のこと。本堂にはリンガ(男根)を祀る。
その所為か、本堂の壁面はミトゥナ像で囲まれている。

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カリンの実 ミモザの花 遺跡がきれいなのは、おばさんのお蔭

カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院は
高さ30m(基壇からだと39m)でカジュラーホーの寺院群の中では最大規模
塔状部が連なる寺院形態は、ヒマラヤ山脈の峰の連なりを象徴している。

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思わず赤面するミトゥナ像
 
クリックすると拡大し、
上下にスクロールしてご覧になれます



デーヴィー・ジャグダンベ寺院

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11世紀に建てられデーヴィー・ジャグダンベ寺院
 
中央の女のモモにサソリが…、
サソリは性欲を表すという
ライオンと王子
このモチーフは処々で見られる



ヴィシュウナータ寺院

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ヴィシュウナータ寺院は1002年の建立で、シヴァ神を祀る ミトゥナ像の両側の女性の表情が微笑ましい



カジュラーホーの寺院群(東群)

東群にはジャイナ教の寺院が多い。西群ほど多くないがミトゥナ像も見られる。

パールシュヴァナータ寺院

パールシュヴァナータ寺院は第23代ティールタンカラ (ジャイナ教祖師)に献じられ、西群よりも早く10世紀半ばダンガ王により建立された。

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東群への入口 ジャイナ教の寺院にもミトゥナ像があるが、ヒンドゥー教のものと区別は付かない



シャンティナータ寺院

シャーンティナータ寺院はジャイナ教の現役の寺院で、954年にジャイナ教の23代祖師パールシュヴァナータに捧げる為に建設された。

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寺院の中部は中庭を周廊(バマティ)が取囲んでいる。中庭はタイル敷きだ。
 
 
ジャイナ教の本尊は、無所有の教義のため裸形だ。高さ4.5mのアーディナータ像で1028年に彫られた。信者がお参りしている。 本尊の前の美しいタイル。もちろん裸足になってお参りする。
 
 



カジュラホからベナレスへ

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カジュラホ空港発のジェットエアウェイズ9W2424便 ベナレス空港に着く



サールナート

今回の旅行では行かないが、ブッダ・ガヤーの大きなボダイジュ下でスィッダールタは悟りを開いた。ブッダ(覚者、覚った人)となったスィッダールタは、ここサールナートで、初めて説法をした(初転法輪)。サールナートは仏教とにとって重要な聖地である。

ダメーク・ストゥーパ・モニュメントサイト

木々の緑と広々とした芝生のなかにダメーク・ストゥーパなどの遺跡が残されている。

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ダメーク・ストゥーパ・モニュメントサイトの入口 モニュメントサイトにはダメーク・ストゥーパ、アショカ王柱などの遺跡がある

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サールナートのアショーカ王柱(紀元前3世紀)
アショカ王柱は、ヴァイシャーリー、サーンチー、
ルンビニー(ネパール)にもある。

アショーカ王柱の碑文
碑文の内容は、僧伽(出家修行者らによって構成される僧団)
の分裂を戒めるもの

アショーカ(在位:前268年頃 - 前232年頃)は、マウリヤ朝の第3代の王である。インド亜大陸をほぼ統一した。ブッダ滅後およそ100年に現れたという伝説もあるアショーカ王は、古代インドにあって仏教を守護した大王として知られる。

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迫力あるダメーク・ストゥーパは6世紀に造られた。高さ42mで直径28m。
今もこの塔の周りを回って礼拝する修行者の姿を見られる。
この位置が、ブッダの初説法の場所といわれている。
ダメーク・ストゥーパに近付いてみると
文様のある煉瓦で出来ていることが分る
 

イスラム教徒によって破壊されたストゥパの跡という

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夕陽を眺める二人の修行僧、手にスマホがある



ムルガンダクティー寺院

ダメーク・ストゥーパ・モニュメントサイトの横にスリランカ人により1931年に建設されたムルガンダクティ仏教寺院がある。日本人画家の野生司香雪氏が描いたブッダの誕生から入滅までの壁画がある。

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ムルガンダクティー寺院の入口 入口を入って振り返ると、ブッダの誕生の絵 順次右回りに修行の絵

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悟りの絵 初説法の絵

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最後に入滅の絵
 
画家の野生司香雪氏の自筆の記録
皇紀2596年と記されているので西暦1936年(昭和11年)



ガンジス川のプージャー(礼拝)

サールナートからベナレスのホテルへ行く途中、バスからリキシャに乗り換えて、ガンジス川河畔で行われるプージャー(礼拝)を見に行く

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2人ずつリキシャに乗る 通りには金属製品などの夜店が出ている

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ガンジス川河畔のダシャーシュワメード・ガートに着くと、日没に始まったプージャーはすでに最高潮に達していた。
ドラと太鼓が鳴り響き、香の煙が充満している。ヒンドゥー教の祭司も、信者も、観客も興奮する。

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すでに岸辺の階段(ガートという)は、立錐の余地もないほど満員だ ガンジス川に浮かぶ船が沢山出ていて、こちらも満員だ。

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(動画)バスを降りリキシャに分乗し、夜店を横目で見ながら、
プージャーが行われているガンジス川河畔に急ぐ
(動画)ドラと太鼓と鐘が鳴り響く
物悲しい読経の声が耳に残る



インダス川とガンジス川
インドを語るときインダス川とガンジス川は避けて通れないであろう。インダス川は古代文明との関わりで、ガンジス川は現代に続くインド人の信仰につながるからである。

インダス川は、 チベット高原から始まり、パキスタンに入り、アラビア海に注いでいる。全長3,180kmで、パキスタン最大の河川である。インダス川本流の93%はパキスタン領内であり、5%がインド、2%が中国領を流れる。 インダス川の流域面積は116万km2以上である。氷河が広がる標高から始まり、温帯樹林の生態系、平野、乾燥地帯を作っている。

インダス文明は、インダス川および並行して流れていたとされるガッガル・ハークラー川周辺に栄えた文明である。川の名前にちなんでインダス文明、最初に発見された遺跡にちなんでハラッパー文明ともよばれる。狭義のインダス文明は、前2600年から前1800年の間を指す。インダス文明の遺跡は、東西1500km、南北1800kmに分布し、遺跡の数は約2600におよぶ。

一方、
ガンジス川は、ヒマラヤ山脈の南側、インド亜大陸の北部を流れる大河で、全長約2525km、流域面積約173万km²である。ヒンディー語やサンスクリットではガンガーと呼び、これはヒンドゥー教の川の女神の名でもある。英語ではthe Ganges と呼び、これは和名の由来でもある。the Nile などと同様、それだけで完結する固有名であり、本来は Ganges River のような言い方はしない。

インダス文明末期の前1900年から前1300年ごろに、インダス川流域にいたアーリヤ人がガンジス川へ移住した。やがてインダス文明が崩壊すると、インドの文明の中心はインダス川流域からガンジス川流域へと移動した(しかし
ガンジス文明という呼称はない)。アーリヤ人は鉄器を使用しながら牛を飼育する牧畜を行った。アーリヤ人がガンジス川の農耕地帯を征服していく過程で、いわゆるカースト制度が生まれたと考えられている。ヒンドゥー教においては、ガンジス川は女神として神格化されている。川沿いにはヒンドゥー教最大の聖地ベナレスをはじめ、4つの聖地があり、ガンジス川そのものも聖なる川とみなされる。死者をその川岸で火葬に付し、灰をこの川に流すことは死者に対する最大の敬意とされる。子供、妊婦、事故死、疫病死の場合はそのまま水葬される。信仰によりこの川で沐浴するために巡礼してくる信者も数多い。

また、この地域はブッダの生まれ、悟りを開いて仏教を創始した地域であり、生誕の地ルンビニや悟りを開いたブッダガヤなど、仏教の四大聖地はすべてガンジス川流域に属する。しかしその後、東アジアや東南アジアに仏教が伝播する一方で、ガンジス流域における仏教信仰は衰退し、ブータンやチベットが仏教国となっているものの、聖地のあるインドではほとんど信者のいない状態となっている。       Wikipedia
他による
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インダス川とガンジス川
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



8日目
(11月30日)
 ベナレスのホテルガンジス川の沐浴風景ベナレス空港アグラ空港
                               
アグラ城アグラのホテル(泊)

ガンジス川の沐浴風景

ガンジス川(インドではガンガー、英語ではthe Ganges と呼ぶ)の2つの顔を見た。昨夜の賑やかなプージャー(礼拝)、今朝の静かな沐浴と火葬である。この2つに違和感なく馴染めたら、私もインド人の仲間に入れるのかもしれない。

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日の出前にガンジス川に着くよう、早朝にホテルを飛び出す。 信者は灯明を立ててお祈りする

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我々は、手漕ぎボートに乗って川から見物する ごった返す船着き場

昨夜プージャー(礼拝)を見物した階段(ガートという)は、今朝は沐浴する人で一杯だ。

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それぞれに祈りながら沐浴する

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老いも若きも ガンジスの水をペットボトルに入れて持ち帰る人もいる

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沐浴している場所の上流にある下水の排水管 ゲストハウスの洗濯したシーツを天日で干す

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日本人が経営している「久美子の家」は1泊80Rs(約150円)と
インドの中でも破格に安い宿泊料が人気でいつも満員だそうだ。
ヒンドゥーの神様を描いた建物は何だろう
 

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沐浴地帯から上流に行くと、火葬場がある
岸辺に薪が積んであって、一晩焼くと遺骨は川に流すという
今日は靄はかかているが、太陽はすでに高い
 

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行きにリキシャに乗ったところは帰りはバスまで歩く
インド空軍機が飾られた公園をバスの車窓から眺める
道路の中央分離帯を飾るヒンドゥーの神様
 

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ホテルに帰って遅い朝食を食べ、客室でテレビを見て寛ぐ。
NHK WORLDで、デープ・スペクタさんが日本の文化を紹介していた。ヴァイオリニストの五嶋龍の映像が流れていた。



ベナレス空港からアグラ空港へ

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エアインデアAI406便で、ベナレス空港からアグラ空港へ Airbus A320機でアグラ空港に着く



ヒマラヤ山脈は大陸の衝突でできた
今回の旅ではヒマラヤ山脈を見る機会はなかったが、たまたま搭乗した航空機の客席モニタにヒマラヤ山脈が出たので、ヒマラヤ山脈はどのようにしてできたのか、 (独法)海洋研究開発機構(JAMSTEC)における研究を紹介しよう。

地球上の大陸は、約2億年前の超大陸パンゲアから分裂・移動して現在の形になったと考えられている(ウェゲナーの大陸移動説)。これは大陸海岸線の形のみならず、古生物や地質からも推測された。その後、大陸移動の主な原動力が、大陸直下のマントルの流れ(マントル対流)であることが明らかとなった(プレートテクニクス理論)。


JAMSTECでは、パンゲア超大陸の南半分を構成していたゴンドワナ大陸から分裂したインド亜大陸がテーチス海を北上し、約5000万年前にユーラシア大陸に衝突した後、ヒマラヤ・チベット山塊を誕生させたことを、スーパーコンピュータによるシミュレーションで示した。
                              下と右の図はJAMSTECプレスリリースより



ヒマラヤ山脈のエベレストが海成堆積物からできていることはよく知られている。

山頂付近は、4億6000万年前(古生代・オルドビス紀)の地層で、「チョモランマ層」という。チョモランマ層の石灰岩からはウミユリや三葉虫の化石が発見されている。

その下には「イエローバンド」と呼ばれる、変成石灰岩の層があり、ここにもウミユリの化石が見つかっている。

「イエローバンド」の下は「ノースコル層」があり、おもに黒雲母片岩からなる。

       Wikipediaより

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    地表面層の大陸分布の時間的変化
ゴンドワナ大陸から分裂したインド亜大陸(上の地図で赤い部分)は、ユーラシア大陸に衝突した。その結果衝突部が盛り上がりヒマラヤ山脈ができた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



アグラ城

アグラ城(アーグラ城塞ともいう)は、ムガル帝国時代の城塞。赤砂岩で築かれた城壁の色から「赤い城」(ラール・キラー)の名がある。ただし、デリーの城も同じく赤い城と呼ばれ、単にインドの「赤い城 (Red Fort)」と言えば、通常はデリーの方を指す。皇帝アクバルが1565年に着工して1573年に完成した。その後帝国の3代の居城となった。アウラングゼーブが兄弟間の後継者争いに勝つと、父であるシャー・ジャハーンをタージ・マハルの見える城塞内の「囚われの塔」に幽閉してデリーに移った。 アグラ城は1983年に世界遺産に登録された。

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城外の空堀 アマール・シン門

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アウバル門
 
アウバル門の飾りは、イスラム調のタイル製
ムガル帝国はトルコ系イスラーム王朝であった

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デイーワーネ・アーム(一般謁見の間) 場内の芝生に可愛いリスが

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ディーワーネ・カース(貴賓謁見の間)
庭の植物がイスラーム絨毯のように見える。
 
ムサンマン・グルジュ(5代皇帝シャー・ジャハーンが
息子のアウラングゼーブ帝に幽閉された場所)。
ここから乳が建てたタージ・マハルが見える。

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貴賓謁見の間はイスラム美に包まれている

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ジャハーンギール宮殿は、ヒンドゥやジャイナの伝統的な建築と
外来のイスラーム建築とを統合したインド独特のイスラーム建築
この大きな石のカップは何だろう。浴槽かもしれない。
 



ヤムナー川の対岸からタージ・マハルを遠望

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ヤムナー川を挟んで対岸からタージ・マハルを遠望できるポイントで、夕暮れを待った。

少し霞がかかっていたが、裏側のタージ・マハルを遠望できた



9日目
(12月1日)
 アグラのホテルタージ・マハルファテープル・スィークリー
                   
チャンド・バオリ(階段井戸)ジャイプールのホテル(泊)

タージ・マハル

インドの観光地の人気No.1といえば、タージ・マハルであろう。タージ・マハルは、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、1631年に死去した愛妃ムムターズ・マハルのため建設した総大理石の墓廟である。インド・イスラーム文化の代表的建築といわれている。1632年着工、1653年竣工。1983年にユネスコの世界遺産に登録された。

謀反を起こした臣下討伐に行く皇帝シャー・ジャハーンに付き従っていた愛妃ムムターズ・マハルは、遠征先で産褥病のため、1631年6月7日に死亡した。彼女は遺言のひとつに、後世に残る墓を所望した。彼女はザイナーバードの庭園に葬られ、毎週金曜日に訪れるまだ39歳のシャー・ジャハーンの髯はすっかり白くなっていた。なお、シャー・ジャハーン自身は、タージ・マハルと対をなす形でヤムナー川を挟んだ対岸に黒大理石で出来た自分の廟を作ろうとしたとされるが、これは実現しなかった。


ヒンドゥー教徒は墓を持たず、遺体は火葬され遺骨や灰は川に流される。霊魂は永遠と考えるイスラーム教徒が持つ墓は簡素なものに過ぎない。ムガル王朝の皇帝は大きな霊廟を備えたが、これは専制君主の権勢を示す目的があった。権力を握っていたわけでもないただの王妃に対し壮大な墓廟が建設された例は、他にはほとんど無いという。

タージ・マハル着工の頃、シャー・ジャハーンはヒンドゥー教を抑圧する令を発するなど、イスラーム教国家
建設に取り掛かっていた。その中でタージ・マハルはイスラーム教徒の精神的中心として構想された。聖者信仰はイスラームにもヒンドゥーにも見られ、その墓所は霊力が宿るという考えはムガル王朝期のインドでは強かった。ムムターズ・マハルを聖者とみなす根底には、イスラーム社会が女性に夫への愛と子を生むことを求め、産褥による死は男性が聖戦で死す事と同義とみなす母性信仰があり、生涯で14人の子を産み、36歳で死んだ彼女は殉教した聖者になるに充分だったと言える。        Wikipedia他を参考にした

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駐車場から先は乗合いの電気自動車で行く 指定された馬車もOKらしい

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ゲートで入場券を購入し、厳重なセキュリティチェックを受ける
 
外国人は750ルピー(約1500円)
インド人はたったの20ルピー(約40円)。外貨を稼ぎますね

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セキュリティチェックを済ませる、やっとタージ・マハルの敷地を進む これがタージ・マハルの正門

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やっとタージ・マハルが見えてきたが、生憎霞がかかっている
 
 
 近付くと、総大理石の基壇と墓廟が見える。基壇の高さは5.5m、
 階段は見えない設計になっている。墓廟は横と奥行きがどちらも
 57mの変形八角形。

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墓廟の正面入口の上の飾り 墓廟の正面入口の横の飾り

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墓廟の側壁の宝石を填めた象嵌細工 墓廟の側壁の浮彫

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基壇の四隅に建つ4つの尖塔は
「皇妃に仕える4人の侍女」に喩えられる
墓廟を挟む左右に対称的に、
赤砂岩づくりのモスクと集会場がある

ようやく霞が少し晴れてきたので、全景の写真を撮る

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インド人は家族連れが多い
 
トイレチップ10ルピー(約20円)を払って、タージ・マハルの公衆トイレに入る
インドの観光地のトイレはどこもきれいだ。ただ便座のないトルコ式なので困る 



GANPATI RESORTで昼食

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簡単なインド風中華料理の昼食



ファテープル・スィークリー

ファテープル・スィークリーは、ムガル帝国第3代の皇帝(在位1556~1605)のアクバル帝の城跡。 世継ぎに恵まれなかったアクバルは、この地に住む聖者シェーク・サリーム・チシュティーの予言により男児を得た。これに因んでアクバルは首都をアグラからこの地に移した。5年をかけて建設された都は 3km×1.5kmの広大な土地を城壁で囲み、宮殿やモスクを赤砂岩で築いた壮麗なものであった。しかし水不足のため、僅か14年後にはここを立ち去り、アグラに戻された。1986年に世界遺産に登録。

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赤砂岩に包まれた広場には廃墟の雰囲気が漂う。中央は貴賓用謁見殿。 巨大な柱の上に玉座があるという

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王の寝室 ベッドの床に水を流して涼を取ったという 水の乏し地であるので、大きな貯水池を設けた

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各所に水を配して涼しさを演出している 緑の中に赤砂岩が映える



車窓から

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菜種畑 畑で見つけた野生のインドクジャク(同行のMさんが撮影)

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煉瓦を焼く窯の煙突 赤砂岩を原料に祠を作るのが地場産業らしい



チャンド・バオリ(階段井戸)

チャンド・バオリの階段井戸とは、ジャイプル近郊のアブハネリ村にある巨大な階段井戸である。この井戸はインドで最も深く大きな階段井戸の一つである。9世紀に建造され、階段の総数は3500、階数は13階でその深さは30mに達する。

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農閑期に仕事がないから、王様が農民に仕事を与えて作らせた 王様と女性が来たときに使用する部屋もある。

(動画)階段井戸の動画をご覧ください



踊りを見ながら夕食

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レストラン・スパイスコート 踊りを見ながら夕食

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民族楽器の楽士と踊り子 水汲みを主題にした伝統的な踊りらしい

(動画)民族舞踊の動画をご覧ください



サモード・パレスに着く

サモード・パレスはラジャスタンの州都ジャイプールより35kmのサモード村の丘の上に建つ、都会の喧噪とはかけはなれた長閑かな村にある宮殿ホテルである。インドにはかつての藩王であるマハラジャの宮殿を利用したホテルが多数残っているが、このホテルの伝統建築の美しさと良好な保存状態は、数多くあるパレスホテルでも特別な存在といわれている。

今夜泊るサモード・パレスに着くと、ライトアップ・イルミネーションで歓迎

広い客室を一人で占有し、正にマハラジャの気分

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ベッドルーム 洗面台 バスルーム



10日目
(12月2日)
 ジャイプールのホテルアンベール城水の宮殿風の宮殿
              →
ジャンタルマンタル(天文台)
シティ・パレスジャイプールのホテル
(泊)

サモード・パレス探検

翌朝出かける前に宮殿の中を探検した。

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パレスの第1門 第2門 第3門

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4階建の第1棟(昨夜ライトアップがあった) 3階建の第2棟 4階建の第3棟(宿泊した客室がある)

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最上階からの展望 背後の山に、宮殿の警備のための城塞の跡が見えた

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ホテルの人に公開されていない部屋を案内してもらった。 (左)フロントを2階から見下ろす (右)2階の奥にある私的謁見の間



アンベール城への車窓から

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この地は、赤砂岩が風化してできた赤色土だ 石灰岩の山も見られる

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質の良くない石灰岩で、大理石とはいえない 石灰岩は石像に加工される ここではロバの荷車が活躍する



アンベール城

ジャイプルから北東に11kmの丘の上にアンベール城はある。築城が始まった16世紀には、ここがアンベール王国の首都であった。近くにある6つの城砦とともに「ラジャスタンの丘陵城砦」として、2013年に世界遺産に登録されている。

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アンベール城の手前にある人工湖のマオタ湖
 
ここでバスからジープに乗り換える
 
象タクシーもあるが、日本人が象タクシーで事故に逢ったので、今は使わない。

アンベール城のジャレブチョーク(中庭)から、これから訪ねる山側の宮殿を望むパノラマ写真

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象タクシーの乗降場 象の前でパフォーマンスをする日本の女性。危ない!

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階段を上ると屋上までは神域で、撮影禁止 ヒンドゥーの神様、撮影はここまで

階段の上の屋上の展望台から振り返る、ジャレブチョーク(中庭)のパノラマ写真

屋上の展望台から宮殿を望むパノラマ写真、左は一般謁見場だろうか、右の王の居所に入る

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ハマム(トルコ式浴場) トイレ(確かに便座のないトルコ式だ)

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ディワーニカース(貴賓謁見殿) 鏡の間

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天井のモザイク画 15世紀のステンドグラス(部分)

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王のベッドがあるハーレム(勿論カーテンを付けたであろ) 宮殿の背後の山にあるジャイガル城砦



水の宮殿

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ジャイプルの王様が釣りを楽しむために造った人造湖と「水の宮殿」



レストランで昼食

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GLITEレストランの前で商売する占星術師 今日もの昼食は、ターリ(カレーのセット)



ジャイプル(ピンクシティ)

ピンクシティとも呼ばれるジャイプルは旧市街の街並みが赤みがかった壁面が青空に映えて華やぐ。ここではハワー・マハル(風の宮殿)、ジャンタル・マンタル(天文台)などを見学する。

ピンクシティの街並み

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果物屋さんや八百屋さんが並ぶ普通の町だが・・・

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家の外壁がすべてピンク(赤褐色)だ



ハワー・マハル(風の宮殿)

ハワー・マハル(風の宮殿)は、ジャイプルのピンク・シティと呼ばれる街区の一角にある宮殿史蹟である。

ハワー・マハル(風の宮殿)は大通りに面している。かつて宮廷の女性たちが、ここから町を見下ろしたという彫刻を施したテラスが並ぶ。

窓が張り出しているので、風通しがいいし、眺めも抜群



ジャンタル・マンタル(天文台)

ジャイプルの町を築いたジャイ・スィン2世は、天文学に造詣が深かった。彼はペルシアやヨーロッパの書物を集め、中央アジアのサマルカンドにあったウルグ・ベクの天文台なども参考にし、インド各地(5か所)に天文台を造った。特に1728年に造ったジャイプルのものが巨大で、観測儀の数も多い。現在見られるのは、1901年に修復されたものである。2010年に世界遺産に登録された。

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天文台の入口
 
サムラート・ヤントラと呼ばれる観測儀は、
高さ27m、時刻を2秒まで測れる

ラグ・サムラート・ヤントラはサムラート・ヤントラの小型版で、時刻を20秒まで測れる

ラグ・サムラート・ヤントラの目盛板、確かに最小目盛は20秒だ。今日は薄曇りなので影はぼやけているが、晴天なら20秒間で測れそうだ。

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ラーシ・ヴァラヤ・ヤントラは12体からなる観測儀。その1つサソリ座用。

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ジャイ・プラカーシュ・ヤントラは、ほかの観測儀で測った結果を補足するためのもので、直径4mの凹んだ半球の中に入って観測するという



シティ・パレス

シティ・パレスはマーハラージャのサワーイー・ジャイ・スィン2世によって1726年に作られた建物。現マハーラージャの住居であり、一部が博物館になっている。博物館は見学したが、撮影禁止。

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チャンドラ・マハル(月の宮殿) 月の宮殿の右側にある入口

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入口にあるインドクジャク(インドの国鳥)の装飾

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ディワニ・カース(貴賓謁見の間) ディワニ・カースの1階に展示された銀の壺
銀の壺は、1902年、エドワード7世の戴冠式に出席するためにマハーラージャが持って行ったもの。敬虔なヒンドゥー教徒だったマハーラージャは、この壺にガンジス川の水を入れて、旅の途中でも常に沐浴したという。世界で最も大きい銀製品としてギネスブックに登録されている。



インドとゴミ(車窓から)

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インド人はきれい好きだ。しかし自分の家の前だけ掃除する。 公共の場所はゴミだらけである

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小川は絶好のゴミ捨て場である ゴミ箱の周りにも捨てる



夕食前に裏山に登る

明るいうちにホテルに帰りついたので、1人でホテルの裏山に登る。

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ここが石段のスタート点 374段の石段に番号が付いている 石段は万里の長城のように続いている

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石段を登り詰めると、城壁で塞がれる
 
やむなく迂回して立入禁止を犯すと、山頂に出る。
花崗岩の岩の向うに宮殿ホテルが見えた。

夕陽が望めた。インドでは通信インフラになっている携帯電話の中継アンテナがあった。



11日目
(12月3日)
 ジャイプールのホテルデリー市内観光(クトゥブ・ミナール、フマユーン廟)デリーのホテル(泊)

ジャイプールからデリーへの車窓

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外観は日本と変わらない観光バスであるが…
 
運転席と客室は分離している。
エアコンを別々にするためだという。
ヘッドライトに遊び心
 

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木材を運ぶラクダの荷車 ロバの荷車(宗教上の理由から牛は使わない)

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日本の現地法人のNTN(ベアリングメーカー世界4位) 日本の現地法人のFUJITSU TEN(カーナビ・カーオーディオの大手)

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ニューデリーでは車のカーテンを開けさせられる。
治安上の理由であるという。
ニューデリーの車の混雑はすさましい。
 
糖尿病専門医の広告看板
インドでも贅沢病がはやっている?



クトゥブ・ミーナールとその周辺

ミーナールとはモスクの尖塔(ミナレット)のこと。クトゥブ・ミーナールは、インド最初のイスラーム王朝である奴隷王朝(1206~1290年)のスルタン、クトゥブッディーン・アイバクが、ヒンドゥー教徒に対する勝利を記念して建てたもの。塔は高さ72.7m(世界最高)、5層からなり、直径は基部が14.3m、頂部は2.7m。下の3層は赤砂岩、上の2層は大理石と砂岩で造られている。ヒンドゥー様式とイスラーム様式が混在した様式となっている。おそらくヒンドゥー教・ジャイナ教の寺院などを破壊し、その石材を転用して制作されたものであり、建築に携わった職人もヒンドゥー教徒であったと推測されている。「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群」として、1993年に世界遺産に登録された。

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クトゥブ・ミナール 塔には、アラビア文字の装飾

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インド人に人気の鉄柱は高さ7m。3~4世紀のグプタ朝時代に
造られたもの。 鉄柱の先頭の飾りが面白い。 
鉄柱に彫られたサンスクリット語の文字
鉄の純度が高いので、錆びないという

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破壊したヒンドゥー寺院の部材を用いたクトゥブ・モスクの回廊 回廊の柱の飾り

未完成のアラーイ・ミナール
ハルジー朝のスルタン、アラー・アッディーンは、クトゥブ・ミナールに優る第二の塔を建ててイスラームの
勝利を祝おうとしたが、1316年に暗殺されてしまったために、第1層も完成しないうちに 工事は中断されて
しまった。そのアラーイ・ミナールの基礎部分は 直径が 25mもあるので、完成していれば 100mを超える
高さとなったと思われる。



フマユーン廟

ムガル帝国2代皇帝フマユーンの霊廟で、フマユーンの妃によって1565年~1573年に建設された。タージ・マハル(1632年~1653年)の原型といわれる。白亜のタージ・マハルとは対照的に、赤砂岩と大理石を用いた赤と白のコントラストが男性的に映える。1993年に世界遺産に登録された。

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先生に引率されて中学校の修学旅行だろうか

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いくつかの門をくぐって廟に近付く、演出が心憎い

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タージ・マハルの原型ともなった左右対称の安定感のあるフマユーン廟である
 
廟の内部にある白大理石は仮の棺で、
遺体は地下にあるという

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フマユーン廟の敷地内にある2つの廟



ホテル ザ・グランド

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デリーのホテル、ザ・グランドに泊まる



12日目
(12月4日)
 デリーのホテルデリー市内観光(ラール・キラー、国立博物館、インド門、ラクシュミーナランヤン寺院、
                                    高級ショッピングモール)
デリー空港機中
(泊)

ホテルからラール・キラーへ

ボン市は、前1世紀になるとローマ帝国の駐屯地となった。13世紀よりケルン大司教の居住地となった。18世紀末、ナポレオンによって占領されたが、19世紀初頭のウィーン体制

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ホテルのレストラン
 
町のサイクル・リキシャ屋 車夫はリキシャを1日50ルピーで借り、
1日300ルピー(600円)売り上げるという

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デリーの道路渋滞
 
インドはイギリスが旧宗主国だったので、左側通行
図で、赤は右側通行国青は左側通行国



ラール・キラー(レッド・フォート、赤い砦)

ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンはアグラからデリーに都を戻し、自らの名を冠した都城シャー・ジャハーナーバードを造営した。これが現在のオールドデリーで、その中心ラール・キラー(レッド・フォート)は1639年~48年に建設された。その名の通り、赤砂岩で築かれた堂々たる城壁に守られいる。毎年8月15日のインド独立記念日には、ここで首相演説が行われる。2007年に、「赤い城の建造物群」として世界遺産に登録された。
なお、インドで「赤い城」と言えば同じく帝国時代に築かれたアーグラ城塞を指す場合もある。

ラール・キラーの全景
団体旅行中には全景が撮影できる場所まで行けなかったので、この写真はWebsiteから借用した

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空堀に囲まれた都城 通常入場するラホール門

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ラホール門をくぐると、土産物屋が並ぶチャッタ・チョウク(アーケード)がある

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ナッカル・カーナは時刻や王族の帰還を知らせる音楽が奏された中門 ディワーニ・カース(貴賓謁見殿)

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ディワーニ・カースの大理石の装飾 ディワーニ・カースからナムナー川への通路

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ディワーニ・アーム(一般謁見殿) ディワーニ・アームに置かれた玉座

ラール・キラーの入場料は、インド人10ルピー(20円)に対して外国人250ルピー(500円)だよと、
チケットを見せる現地ガイドのサクさん。サクさんの日本語と日本事情に詳しいのには驚いた。
因みに、サクさんのカースト(正確に言えばヴァルナ)はクシャトリヤ(王族・戦士)だそうだ。

インドにおけるカースト

カーストとは、ヒンドゥー教における身分制度(ヴァルナとジャーティ)を指すポルトガル語、英語である。紀元前13世紀頃に、バラモン教の枠組みがつくられ、その後、バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラの4つの身分に大きく分けられるヴァルナとし定着した。

カーストでは一般に基本的な分類ヴァルナが4つあるが、その中には非常に細かい定義があり、結果として非常に多くのジャーティが存在している。カーストは身分や職業を規定する。カーストは親から受け継がれるだけであり、誕生後にカーストの変更はできない。ただし、現在の人生の結果によっては次の生で高いカーストに上がれる。現在のカーストは過去の生の結果であるから、受け入れて人生のテーマを生きるべきだとされる。まさにカーストとは、ヒンドゥー教の根本的世界観である輪廻転生観によって基盤を強化されている社会原理といえる。

ヴァルナの枠組み
バラモン    神聖な職に就けたり、儀式を行える。司祭とも翻訳される。
クシャトリヤ  王や貴族など武力や政治力を持つ。王族戦士とも翻訳される。
ヴァイシャ   製造業などに就ける。市民とも翻訳される。
シュードラ   古代では、一般的に人が忌避する職業のみにしか就けなかったが、時代の変遷とともに中世頃
         には、ヴァイシャおよびシュードラの両ヴァルナと職業の関係に変化が生じ、ヴァイシャは売買を、
         シュードラは農牧業や手工業など生産に従事する広汎な「大衆」を指すようになった。労働者
         とも翻訳される。
ヴァルナをもたない人々もおり、アチュートという。不可触賎民とも翻訳される。

ジャーティ(「出自」・「生まれ」の意)とは、インド亜大陸の地域社会において実際のカースト制度の基礎となる共同体の単位であり、ヒンドゥーの日常生活において現実的に独自の機能を果たす排他的な職業・地縁・血縁的社会集団、階層を示す用語である。
4つのヴァルナの区分が社会の大枠を示したものであるのに対し、ジャーティの区分はたとえば「壺つくりのジャーティ」、「清掃のジャーティ」、「羊飼いのジャーティ」というように、特定の伝統的な職業や内婚集団によってなされる場合が多く、その数はインド全体で2,000とも3,000ともいわれている。ジャーティとヴァルナの間には、内婚、職業との結合、上下貴賤の関係など共通する性格も認められ、不可触民のジャーティを除いたほとんどすべてのジャーティは同時に4ヴァルナのいずれかに帰属している。

インドでは、1950年に制定されたインド憲法の17条により、不可触賎民を意味する差別用語は禁止、カースト全体についてもカーストによる差別の禁止も明記している。奨学金制度などの制度改善に取り組むものの、現在でもカーストはヒンドゥー社会に深く根付いている。

アーリア人がカースト制度を作った理由
はすでにかなり研究されている。一説にはアーリア人はトゥーラーン近郊を起源としているが、当然、このあたりに存在する疾患にしか免疫を有していなかった。アーリア人の侵略の初期においては、ドラヴィダ人などの原住民と生活圏をともにし、時には婚姻関係さえ結んでいた。しかし、侵略範囲が広大化してくると、トゥーラーンから離れれば離れるほど、アーリア人が経験したことのない感染症を原住民が保有・保菌している事態が出てきた。 原住民はすでにそれらの感染症に免疫を獲得しているが、アーリア人はまったく免疫を持っていないため、次々とアーリア人のみが風土感染症により死亡する事態が出てきた。 これらに対応するためにアーリア人が取った政策がアーリア人とそれ以外の民族との「隔離政策」「混血同居婚姻禁止政策」である。制度発足時は「純血アーリア人」「混血アーリア人」「原住民」程度の分類であったとされ、「混血アーリア人」を混血度によって1~2階層程度に分けたため、全体で3~4の階層を設定した。その後アーリア人はこの政策を宗教に組み入れ、制度として確立させた。

インド以外に、ミヤンマー、ネパール、バリ島などにカーストに類似の制度がある。       Wikipediaなどによる



国立博物館

国立博物館には、インダス文明から、中世、近代までの20万点以上の展示物が紹介されている。

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国立博物館の入口

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サラスヴァティー立像 仏舎利容器 ガンダーラ的容貌の仏像
サラスヴァティーは学問と技芸の女神である。腕にヴィーナという楽器を抱えているものが多いが、この立像では水壷と蓮華を持っている。元来が川の女神であり、水と縁の深いことを表すと思われる。日本では弁財天として広く知られている。

世界四大文明の時代区分(エジプト、メソポタミア、インダス、中国)だが、文字が小さくて読めない

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インダス文明の印章
 
BC2000年頃のハラッパ文明の青銅
 
踊る少女
BC2700~2000年の青銅

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1~2世紀のレリーフ インド紙幣に使われるライオン像

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モヘンジョダロ遺跡の仏塔 モヘンジョダロ遺跡の大浴場

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BC2700~2000の壺 ガランダーラ、2世紀の石造 10世紀の石造 5世紀の石造

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菩提樹の下のブッダの象牙彫り アクセサリ

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ブッダの物語の絵画



インド門

インド門は、パリのエトワール凱旋門を基にイギリス人建築家エドウィン・ラッチェンスにより設計された門型のモニュメント。第一次世界大戦で戦死したイギリス領インド帝国の兵士(約8万5千人)を追悼するために造られた。永遠の火が灯されている。


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高さ42mのインド門 インド門の東側に見える由緒ありそうな建物

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インド門は、第一次世界大戦で戦死したインド兵士の名が刻まれた慰霊塔になっている

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インド門から西に延びる道路の先に見える大統領官邸 警備の兵士や警察官の和やかな顔

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修学旅行の女子学生に囲まれた スズキの小型車から出てきたのは、7人家族



ラクシュミー・ナーラーヤン寺院

ラクシュミー・ナーラーヤン寺院は、16世紀に建立された現役のヒンドゥー寺院である。

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入口でカメラを含めすべての持ち物を預ける
 
裸足になってこの階段を登り寺院内へ。
これから先は撮影禁止。現役のヒンドゥー寺院だから仕方がない。

道路を挟んで眺める寺院の全景。現地ガイドのサクさんは、この寺院でお見合いをしたと懐かしげだった。



高級ショッピングモールを見て空港へ

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空港へ向かう途中見たモニュメント、何だろか。
 
 
 インドでよく見かけるオート・リキシャだが、何とCNG(圧縮天然
 ガス)自動車。一方、LNG(液化天然ガス)自動車は日本でも
 まだ普及していない。

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空港まで時間があったので、代表的なショッピングモールを見学した (動画)クリックしてモールをご覧ください

デリー空港のロビーの大きなオブジェは、仏教だろうか、ヒンズー教だろうか



13日目
(12月5日)
 機中(泊)成田空港

21:45デリー空港発のエアインディアAI306便で、機中泊。翌朝日本時間の8:00(インド時間4:30)に成田空港に着いた。

エアインディアAI306便、Boeing787-8機の機内モニタ



 長い間、行ってみたいと思っていたインドを訪ねることができ、大満足であった。インドは仏教発祥の地でありながらヒンドゥー教の国となり、長い間イスラム帝国の配下に甘んじた。その後もヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任し、イギリスの植民地となった。インド憲法が発布され共和国が成立したのは第二次世界大戦後の1950年であった。そこには日本と異なる文化的基盤があるに違いない。ヒンドゥーの多くの寺院や廃墟を訪ね、ガンジス川で行われる「夜の祈り」や「早朝の沐浴」を眺めたが、まだインドを理解するには体験が足りないような気がする。

 私個人としては、ブッダが悟りを開いたというブッダガヤーなどの仏教の聖地、インドの山岳鉄道といわれているダージリンヒマーラヤ鉄道、かつてポルトガルの植民地であったゴアなども訪ねてみたいが、80歳を過ぎた私にとっては叶わぬ夢かもしれない。

 最後に、ユーラシア旅行社添乗員の齊藤信さん、現地ガイドのサクさん、13人の旅仲間の皆さんに、心より感謝申し上げます。今回の旅には一緒に行けなかったが、いつもホームページのチェックをしてくれる妻にも感謝したい。



インド(1)は、ムンバイ、エレファンタ島、オーランガバード、エローラとアジャンタ
       石窟寺院、ビンベトカ岩陰遺跡
、サーンチーの仏教遺跡など


インド(2)は、カジュラホの寺院群、サールナート、ガンジス川の礼拝と沐浴、アグラ、
          タージ・マハル、アンベール城、ジャイプル、デリー、ラール・キラーなど



   まだご覧になっておられなければ、上をクリックしてインド(1)をご覧下さい。 



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