西田進のホームページ
のトップへ戻る
ポルトガル(1)---ポルト、コインブラなどポルトガル北部を訪ねる
  
 なぜか国や都市には、それをイメージさせる形容詞がある。 花の都パリ情熱の国スペイン、という風に。 ポルトガルには、哀愁のポルトガルというのがぴったりだと私は思う。 かつては大航海時代を拓き、アジア、アフリカ、南米に多くの植民地を持ちながら、自国の経済は発展せず、ヨーロッパの田舎に甘んじている、そんなことから連想するのかもしれない。

 
ユーラシア大陸の西端の国ポルトガルと、同じユーラシア大陸の東端に位置ずる小さな島国日本は、なぜか縁の浅からぬ関係であった。 1543年にポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を伝来した。 1543年という年代は「以後予算には鉄砲代」 として暗記したものである。 その後も宣教師フランシスコ・ザビエルの来航、天正遣欧少年使節の派遣、支倉常長遣欧使節の派遣などの交流が続いたが、支倉常長が帰国したときには、我国はキリシタン弾圧の時代となっていた。

 堅い話は別にして、まずはポルトワインの産地、ポルトガル北部の都市ポルトから旅を始めよう。


 今回も
妻と二人で参加したユーラシア旅行社の12泊13日のポルトガルの旅を、次の2部に分けて掲載する。

   
ポルトガル(1)  ポルト、ブラガ、アヴェイロ、コインブラ、ナザレ、
              オビドスなどポルトガル中北部

  
 ポルトガル(2) エヴォラ、ファーロ、シントラ、ロカ岬、リスボンなど
              ポルトガル中南部

順次ご覧下さい。                        (2003年11月)
ポルトワインを積み出す
ラベーロ(帆船)
 
国 名 ポルトガル共和国
首 都 リスボン
政 治 共和制
面 積 9万2391km(アゾレス、マデイラ両諸島を含む) 日本の約1/4
人 口 1,008万人 日本の約1/13
民 族 ポルトガル人99%
言 語 ポルトガル語公用語
宗 教 カトリック94%
産 業 長く植民地からの搾取に頼っていたので、産業はあまり発達していない。農産物では、ワイン、コルク、オリーブなど。水産業も盛んであるが、食料の半分を輸入している。工業は小規模。
1人当GNI 1万0670ドル/年 日本の0.30
ルート図  赤はポルトガル(1)、青はポルトガル(2)
 

  
ポ ル ト
 
ポルトガルの首都はリスボン。 では、2番目の都市は?  答えはポルトである。人口約30万人のポルトは、商工業の町で、国名ポルトガルの起源でもある。
8世紀にはイスラムのムーア人の支配下になり、11世紀にイスラム教徒から
国土を取り戻したフランス貴族がいてブドウを栽培していた。 愛飲家にはポルトワインの産地として知られている。 
1996年にユネスコの世界遺産に指定された。
 
ドウロ川北岸
 
ポルトの市街の中心部はドロウ川の北岸にある。面白いことに、ポルトガルで大きな川に面する都市には、川の北岸に市街の中心部があるものが多い。ここポルトの他に、リスボン、コインブラ、ヴィアナ・ド・カステロなどがそうである。 ポルトガルの河川の多くはスペインとの国境の山中から西方に流れ大西洋に注いでいる。永いイスラム支配の後、8世紀から13世紀にかけて北部から順次レコンキスタ(国土回復運動)が行われたことと関係が深いようである。

ドロウ川北岸には、教会、市庁舎、ボルサ宮殿(実は証券取引所)など歴史的建造物が多い。
 
                 ボルサ宮とエンリケ航海王子の像
ボルサ宮は、元は修道院であったが、最近まで証券取引所に使われた建物。内部を見学すると、実際に裁判が行われた「法廷の間」、今でもレセプションが行われる「黄金の間」、スペインのアルハンブラ宮殿を真似て作られたという「アラブの間」などがある。残念ながら内部は撮影禁止。
エンリケ航海王子(1394-1460)は、ポルトガルを大航海時代へ導いた特級の英雄。彼の像はポルトガルのいたる所で見られる。
 
雨の中の市庁舎
 
クレリゴス教会の鐘楼
18世紀に建てられたバロック様式の教会
  
     サン・フランシスコ教会
17世紀に作られた入口を入ると、内部は600kgの金を使用したというバロック装飾に圧倒される。
キリストの家系図
 サン・フランシスコ教会の礼拝堂にある 
ジェッセ Jesse の樹(キリストの家系図)
   
  
ドウロ川南岸
 
ドウロ川の南岸はローマ時代にはカーレCaleという州であった。ドウロ川の河口の港Portusであるので、ポルタス・カーレと呼ばれていた。これがポルトガルの語源であるという。
川岸には、有名なSANDEMAN など30を越すポルトワイン蔵が並ぶ。英語系の社名が多いのは、17世紀に関税特権を与えられた英国の企業が進出したからだという。ワインに限らず、ポルトガルと英国の関係は、歴史的にきわめて密接である。
 
 右にスクロールして180度のパノラマをご覧下さい →
ドウロ川の南岸に並ぶラベーロ(帆船)はポルトワインを運ぶためのもの。現在は鉄道やトラックに取って代わられたが、ポルトにはなくてはならない風景である。右端に見えるドン・ルイス1世橋は1886年にエッフェルの弟子によって作られた2階建ての橋。
 
      ポルトワインの老舗サンデマン
見学の後、赤ワイン(vinho tinto)と白ワイン(vinho
branco)を幾種類か試飲し、気に入ったものを購入し、旅の初日にスーツケースを重くしてしまった。
 
 
           蔵で眠る無数の樽
ポルトワインはブドウ汁の一次発酵の途中でブランデーを加えて発酵を止める、いわゆる「酒精強化ワイン」の一種。 高いアルコール度と残留するブドウの甘みから、絶好の食前酒・食後酒となる。 日本の赤玉ポートワインは、ポルトワインとは全く別物。
  

  
ギマランエス
  
ポルトから始まったポルトガルの旅は、一旦ポルトガルの北端に行き、そこから順次南下することになった。そして最初の町が、ポルトガル初代国王アフォンソ・エンリケスの生誕の地ギマランエスである。
 
ブラガンサ公爵館と城
 
ギマランエスは、ポルトガル初代国王アフォンソ・エンリケス(1110-1185)の生誕の地である。彼は1143年ポルトガル王と認められた。ブラガンサ公爵館は15世紀初めに建てられた。レンガの煙突にブルゴーニュ地方の影響が見られるという。
 
ブラガンサ公爵館に隣接して、10世紀の城が建っている。エンリケスはここで生まれた。
 
ブラガンサ公爵館と城の間に、12世紀に建てられたロマネスク様式のサン・ミゲル教会がある。エンリケスはここで洗礼を受けたといわれている。
 
オリーブの樹の聖母教会
 
          オリベイラ広場にあるオリベイラ教会 と 近所のおばさん
ノッサ・セニューラ・オリベイラ教会(オリーブの樹の聖母マリア教会)は、ムーア人を破ったサラードの戦いの勝利(1340)から2年後、このアーチが完成するとき、オリーブの幹が突然葉を出したという伝説による。
 
ポザーダ・デ・サンタ・マリーニャ
 
旅の楽しみの1つに宿がある。豪華ホテルも結構だが、ローカル色豊かな洒落た宿は私にとって最高である。ポルトガルには44の国営ホテルがあり、古城、王宮、修道院、貴族の館など国の重要文化財の建築物を改築したヒストリカル・ポザーダと、自然景勝地や歴史的な場所に新しく建てられたリージョナル・ポザーダがある。今度の旅ではいくつかのヒストリカル・ポザーダに泊まることができた。
 
ポザーダ・デ・サンタ・マリーニャは、もとはアフォンソ・エンリケスの王妃の命により建てられた修道院
 
先ずはウエルカム・ドリンク 落ち着いた雰囲気の廊下。ただし、ベッドは少々きしむ木製だった。
 
噴水のある中庭 早朝1時間かけてホテル裏の庭園を散歩した
 

 
ヴィアナ・ド・カステロ
 
今回のポルトガル旅行で訪ねる最北の町がヴィアナ・ド・カステロである。この辺りは雨が多く、豊かな農業地帯であるという。 大航海時代が終った後、ポルトガルは国力が衰えていくが、この町の猟師たちは鱈を獲り、繁栄したという。そういえば「タラのコロッケ」など鱈料理を何回か食べたし、お土産に干鱈を買って帰った。 以前は日本でもよく干鱈を食べた。京料理の「平野屋のいもぼう」を思い出した。
 
標高249mのサンタ・ルチア山展望台から望むリマ川とヴィアナ・ド・カステロの町
右端は大西洋で、この町は造船業ではポルトガルで第2と聞くが、遠望では大きなドックは見当たらない。
 
                 サンタ・ルチア山山頂に立つサンタ・ルチア教会
なんとも不恰好な建物だが、19世紀末から20世紀にかけて建てられたネオ・ビザンチン様式の教会で、パリのサクレクール寺院を真似たものという。なるほど内部に入ると大きなドームがあり、キリストの処刑と復活の場面が描かれていた。
 
         貴族の館を使った市立博物館
16〜19世紀の家具、陶器類、絵画、などが展示されていた。かび臭くて苦行の1時間であったが、アズレージョ(絵タイル)が貴族の館でどのように使われていたかが分った。
 
A A A A
ヴィアナ・ド・カステロの町並は古く、16世紀の建物もあるという。古い建物には家の紋章がついている。
  

気になる木
南ヨーロッパでは、車で走れど走れどオリーブ畑ということは珍しくない。しかしポルトガルでは、チョット気になる木を見つけた。因みにポルトガルは世界最大のコルク輸出国である。
A A
コルクガシの木
この木の皮から作るコルクは
ポルトガルの重要な輸出品
コルクガシの木の皮
10年に1回皮をはがすという
4は1994年、3は2003年か
コルクガシの実
一種のドングリである
 
ユーカリ
大航海時代に南半球
から持ち帰ったという

日本の松と異なり、
「ローマの松」に似ている

コインブラの「涙の泉」で見つ
けたもの。 どうしてここに?
ブドウ
日本と同様に、棚にしている
のはヨーロッパでは珍しい
オレンジ
古城で見かけたもの
 
レモン
南ヨーロッパにはレモンが似合う
  

  
ブ ラ ガ
  
ブラガは宗教の町である。「リスボンは楽しみ、コインブラは学び、ポルトは働き、そしてブラガは祈りの町である」 といわれる。ブラガ郊外にある聖地、海抜400mの丘の上に建てられたボン・ジェズス教会を訪ねた。
 
バロック様式の階段は、下から順に五感の階段、三徳の階段と呼ばれる。最上部に建つのが、霧雨の中のボン・ジェズス教会。
  
A
五感の階段には、それぞれ象徴する動物の泉がある。 1番目は視覚の泉(ワシ)、 2番目は聴覚の泉(ウシ)、 3番目は嗅覚の泉(イヌ)、4番目は味覚の泉(サル)、5番目は触覚の泉(クモ)。
写真(左)は触覚の泉、写真(右)はクモの部分を拡大したもの。
 
A A
三徳の階段にある「信仰の泉」 「希望の泉」はノアの方舟 「博愛の泉」はハトの母と子
 
A
階段の上にあるボン・ジェズス教会は1784年から1811年に建てられた新古典主義様式 教会の祭壇には、キリストの処刑の場面の強烈な像がある
 

  
ポンテ・デ・リマ
  
リマ川にかかるローマ橋
リマ川の中流に位置する緑に囲まれた小さな町。その歴史は遠くローマ時代にさかのぼる。
  

  
アヴェイロ
  
アヴェイロの町は自然の良港として16世紀に繁盛したが、大暴風雨で水路が砂で塞がってさびれてしまった。19世紀になって大暴風雨で水路が開け、再び町は漁業で立ち直ったという。潟で採れる海藻肥料のお蔭で地味が肥え、酪農も盛んである。肥料用の海藻を集める船をモリセイロといい、今は観光名物になっている

町のはずれにある
アヴェイロ駅は美しいアズレージョで飾られている。ポルトガル語で青をアズール(AZUL)といい、アズレージョは装飾タイルのことである。青系が多く、伊万里焼の影響があるという。
  
A
アヴェイロの町の中央運河に浮かぶモリセイロ 肥料用の海藻だろうか
  
A
駅の出札口
アヴェイロ駅の白壁に映えるアズレージョ プラットフォームで待つ人たち
 
アズレージョの人物画には労働着姿が多い
 
A A
アズレージョの風景画は近郊の名勝を描いたもの(右端はアヴェイロの中央運河)
 
A A
今では見られなくなった 塩田、農業、漁業などの労働風景を、アズレージョで見ることができる
 

  
コインブラ
 
政治のリスボン、商業のポルトに次ぐポルトガル第3の都市コインブラは文化の町である。町を流れるモンデゴ川の北東側の丘の上にコインブラ大学や旧カテドラルがある。川の対岸にはペドロ王子とイネスとの悲恋物語の舞台がある。
 
コインブラ大学
 
ポルトガルの第6代目のディニス王の命により1290年にリスボンに創建された大学が、1308年にコインブラに移りコインブラ大学となった。1537年にジョアン3世が丘の上に移設し現在に至る。ヨーロッパでもボローニャ大学、パリ大学と並ぶ最も古い大学の1つである。
 
モンデゴ川の対岸から眺めたコインブラの町 大学は一番高いところにある
  
a a
ディニス王の像
 
「無情の門」ともいわれる鉄の門を
くぐると旧大学
ジョアン3世の像
 
ラテン語を話すことが義務付けられた
ラテン回廊と時計塔
  
A A
ジョアン5世治下の1724年に建てられた図書館 図書館の内部
 
学生には開放されていないが、
教授は現在も利用しているという
  
学内の横断幕に書かれたURLは、世界の大学のホームページにアクセスできる貴重なサイトだ。もちろん日本の499の大学にもリンクしている。ぜひお試しを

       右の写真をクリックして下さい。
  ご覧になった後、ブラウザの[戻る]でお戻り下さい。
A
  
大学のほかに
  
A A
初代ポルトガル王アフォンソ・エンリケスによって1162年に建てられた旧カテドラル 政略結婚させられたペドロ王子と美しい娘イネスとの悲しい恋にまつわる「涙の泉」  現在はホテルになっている「涙の館」
 
 
  

  
ブ サ コ
  
ブサコではポルトガルの最後の国王マヌエル2世が、狩猟のために建てたという宮殿(現在はホテルになっている)に宿泊した。
 
A
ホテルのロビー 翌朝、庭を散歩
 

モザイク舗装
ポルトガルの町では石畳の舗装をよく見かける。ローマのように大きな石でなく、手のひらに乗る小さな石を使う。 歩道はモザイク模様にしてあって、情緒がある。しかし、この舗装は砂の上に石を並べただけで、コンクリートやアスファルトで固定していないので、いたる所で崩壊している。 だから補修しているのにお目にかかることも多い。 何百年も昔から、同じ工法でやっているのだろう。
A
車道は雨水を流すため、中高になっている 歩道にはモザイク模様が---
A A
石は6〜7cmの直方体
いろいろな方向に置いて
みて、納まりを確かめる
石を並べるのはすべて手作業
作業者には黒人も多い
 
砂を敷いた上に石を置いただけだから、1個抜けるとドミノ風に崩れる

  
ト マ ー ル
  
A
              キリスト修道院
12世紀テンプル騎士団によって創建された。宗教的要素と軍事的要素を持つ。エンリケ航海王子もここで暮らした。
     マヌエル様式の窓
マスト、ロープ、鎖など大航海時代を象徴するモチーフが刻まれている
  
A
ゴシックの回廊 庭のオレンジの樹
 

  
ファティマ
 
第一次世界大戦中の1917年、ジャシンタら3人の子供たちの前に聖母マリアが出現するという奇跡が起こった。当時はオリーブの樹が点在する荒地だったが、今は荘厳なバジリカが建ち、カトリックの聖地となっている。1981年ヴァティカンでローマ法王パウロ2世が狙撃されたが、それはファティマに聖母マリアが初めて現れた日と同じ5月13日だった。

重傷を負った法王が奇跡的に助かったのはマリア様のご加護のためと、 翌年の5月13日にファティマを訪ねた。 以後毎年5月13日には10万の巡礼者で埋め尽くされるという。カソリックの世界は信者でなければ理解できない。
  
A A
ヴァティカンのサン・ピエトロ寺院を彷彿させる荘厳なバジリカ バジリカの尖塔 ジャシンタの墓
  

  
バターリャ
  
バターリャはポルトガル語で「戦い」という意味。1385年攻め込んだカスティーリャ軍をジョアン1世率いるポルトガル軍が打ち破り、スペインに対するポルトガルの独立を守った。ジョアン1世は神に感謝するため修道院を建てた。
  
バターリャ修道院
1388年に始まった修道院建設は16世紀初頭まで引き継がれた。
ポルトガルのゴシック・マヌエル様式を代表する建築の1つ
  
A A A
ジョアン1世
と王妃の棺
 
エンリケ航海王子
の棺
 
見事なマヌエル様式の門だが---
 
     振り返ると天井がない! 
100年ほど工事は続けられたが、未完の礼拝堂となった。資金不足? 設計ミス?
  

 
ナ ザ レ
 
気になる「ナザレ」という町の名前は、西ゴート王ロドリゴがロマノという僧を供にしてシティオにやってきたとき、彼が携えたマリア像がイスラエルのナザレのものだったことに由来する。

かつては漁村であったが、今ではポルトガル内はもとより、ヨーロッパ中から夏はバカンス客が訪れるという。私が訪ねたのは11月で静か!
 
 右にスクロールしてご覧ください
大西洋に沈む太陽と釣り人 「崖の上のシティオ地区」から眺める「砂浜のプライア地区」
 
    ノッサ・セニョーラ・ナザレ教会
ロマノという僧がマリア像を崖の洞窟に隠したが、羊飼いが見つけた。その後聖母マリアの奇跡が起こり、巡礼者が押し寄せるようになった。それが教会の起源という。
 
     メモリア礼拝堂
聖母マリアの奇跡が起こった所に建てられた礼拝堂

喜望峰を発見した冒険家ヴァスコ・ダ・ガマもここを訪ねた。
 
市 場 に て
 
未亡人は黒ずくめとか 気さくに我々に話しかける 民族衣装のチェックのシャツの男
 
八百屋と果物屋が多い 生きのいい「いわし」 名物「いわしの炭火焼」
 

 
アルコバサ
 
アルコバサは、アルコア川とバサ川の合流するところにある小さな町。12世紀にポルトガルからイスラム教徒を追い出したシトー派修道会に、建国の父アフォンソ・エンリケスが感謝して修道院を建てたという。サンタ・マリア修道院には、ペドロ王子とイネスの石棺がある。
(ペドロ王
子とイネスとの悲恋物語については、コインブラの項を参照)
 
サンタ・マリア修道院
 
イネスの石棺には、キリストの誕生から再来までのレリーフが刻まれている。 ペドロ王子の石棺は、6匹のライオンにより支えられ、聖バーソロミューの生涯が刻まれている。
 

 
カルダス・ダ・ライニャ
 
カルダス・ダ・ライニャとは「王妃の湯治場」という意味。ここにジョアン2世の王妃レオノールが設立した温泉病院があるという。ちょうど朝市が開かれていた。
 
朝市は教会前の広場 自分で作った野菜を売る人 まだこんな秤が使われている
 

 
オ ビ ド ス
 
オビドスは城壁に囲まれた人口800人ほどの小さな村。ローマ時代に敵の侵入を防ぐため城壁が築かれた。 その後イスラム教徒に支配され、1148年にアフォンソ・エンリケスによって国土回復された。1282年ここを気に入った王妃イザベルにディニス王が村をプレゼントし、以来王妃の直轄地になったという。
 
城壁に囲まれたいくつかの教会と砦
中世には、教会と砦は村民を外敵から守るものであったことがわかる。
 
城壁の入口 入口の中はアズレージョで飾られている
 
砦とのどかな城外
 
                  光 と 影
カソリック行事の行列の子供たちに出会った。立ち止まってポーズをしてくれた。カソリック色の強いポルトガルは、信仰心の深い国である。それは光でもあり、影でもあろう。この国ではいつまでも中世のような暮しが続くのだろうか。
 

 
ポルトガルの国名の起源でもある北部の都市ポルトを出発し南下してきた旅は、中部の城砦都市オビドスまで辿り着いた。 これより南部にある、ユーラシア大陸の西端ロカ岬、首都リスボンなどは、ポルトガル(2)に収録した。

           
引き続き、ポルトガル(2)をご覧下さい
 

 
海外の歴史と文化の
一覧表へ戻る
次へ
nsdssmhp ホームページの中で検索したい
サーチ
ホームページの中で道に迷ったら
サイト
マップ

nsdssmhp