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英国(1)----スコットランドの旅


 自分が勝手に並べた「歴史の舞台順」に訪ねる海外旅行は、ヨーロッパ・地中海世界では、エジプト、ギリシア、イタリア、トルコ、スペイン、ポルトガルと進んできた。 今回は「英国」の番である。

 英国は、1588年にスペイン無敵艦隊を破り、国際社会に躍り出た。 17世紀には、一定の経済力を持ったブルジョワジーの誕生が、「権利の請願」、「ピューリタン革命」、「名誉革命」などを通じて、議会制政治体制へと移行させた。 18世紀中頃には、ワットの蒸気機関に代表される産業革命が起こり、英国は、ヨーロッパ諸国に先駆けて近代国家への道を歩んだ。 絶対王制の夢を貪っていたフランスは「フランス革命(1789年)」という大きな犠牲を負うことになる。

 大航海時代の覇者スペイン・ポルトガルからフランス革命勃発の国フランスに至る歴史の中間点として、市民革命と産業革命の国「英国」に因んだ何かを、今回の英国旅行で見つけたいという気持ちに駆られた。

 いつも事前にあまり勉強しないで出かける海外旅行であるが、帰国してみると思わぬ収穫に気付くことが多い。 今回のその1つは、スコットランドの地質と地形である。 思いがけず、多くの氷河地形にお目に掛かり、現地のビジター・センターで得た資料などから、ブリテン島の形成史、地質学と産業革命の関係などを知ることができた。

 もう1つの収穫は、ロンドンの科学博物館である。 グループ旅行の合間の僅かな時間の見学ではあったが、期待通り英国の産業革命の技術史の一面を見ることができた。

 英国を、その後訪ねたフランスと比較することは大変興味深い。民族的には「アングロサクソン」と「ラテン」、国土的には「北海に面した高緯度の国」と「海岸線の半分が地中海に面する国」、という違いは、その文化に大きく反映している。 両国は、人々の気性、建物、食事、政治体制などすべて対照的である。 しかし、伝統を重んじ、個性的である点は共通している。 誠に興味深い旅であった。

 なお、国名として、英国、イギリス、UK(グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国 )があるが、ここでは「英国」で統一した。 また、今回の訪問地は、スコットランドとイングランドのみで、ウェールズと北アイルランドは含まれていないことをお断りする。


英国(1)は、スコットランドの旅
英国(2)は、イングランドの旅

である。 合せてご覧下さい。
           (2008年6月)
エジンバラ城は
スコットランドのシンボルである
国  名 グレートブリテンおよび
北部アイルランド連合王国 (英国)
首  都 ロンドン
政  体 立憲君主制
独  立 1066年 ノルマン王朝成立
国連加盟 1945年(発足時から)
面  積 24万4820km(日本の本州の1.07倍)
人  口 6077万人
アングロ・サクソン人94%、ケルト系
言  語 英語(公用語)、ウェールズ語、
スコットランド語
宗  教 英国国教会48%、カトリック16%、
イスラム教1.7%、
産  業 農業人口は2%に過ぎないが、可耕地が広いため、食料の70%を自給している。 スコットランドを中心に漁業も盛んである。

地下資源では、北海油田の産出量は国内需要を上回り、パイプラインでヨーロッパ大陸に輸出されている。

産業革命発祥の国で、繊維、鉄鋼に始まり造船、機械、化学まであらゆる分野で、「世界の工場」として君臨してきた。 19世紀以降はアメリカに主役を譲るが、今も工業が総生産の3割近くを占めている。

かつて世界の海を支配していただけに金融業が発達している。 EU加盟国であるが、統一通貨ユーロは導入していない。
1人当
GNI
4万0180米ドル/年
日本の1.05倍 (2006年)


英国(1)(スコットランドの旅)のルート   ユーラシア旅行社のカタログに加筆



1日目 成田→ロンドン→エディンバラ

British Airwaysで成田を発ち、ロンドン経由でエディンバラに着く

            エディンバラ空港から市内へのバスから見た”Park and Ride”の標識
自宅から市街地の入口まではマイカーで行き、そこで駐車場に置き列車やバスのような公共交通機関で市街地に入るPark and Rideという話はよく聞くが、現実に見たのはこれが初めて。 イギリスは保守的な国だというが、「なかなかやるなあ」というのが第一印象である。 駐車料金は無料、市内へのバス代は1.10ポンド(約200円)とある。

エディンバラで泊まったホテル



2日目 エディンバラ観光

ホテルの近くの教会、何とも古色蒼然としている。
 
 
 
 
      近くのカールトン・ヒルに登る
北のアテネともいわれるエディンバラに相応しく、アテネのパルテノン宮殿を模して、ナポレオン戦争戦没者記念として建てられた。ところが途中で予算が尽きてしまい、現在も未完成という。



ホリルード・ハウス宮殿

ホリルード・ハウスは、元修道院。16世紀に英国王室の宮殿となり、
王室がスコットランドを訪問したときにはここに滞在する。
今日は生憎滞在日で、見学できない。

ロスリン礼拝堂

スコットランドの古都エディンバラの郊外に建つロスリン礼拝堂は、映画にもなったダン・ブラウンのミステリー小説「ダビンチ・コード」の最大の謎が隠されているので有名である。 ロスリン礼拝堂の建立には、テンプル騎士団やフリーメーソンが大きなかかわりを持っているといわれている。

それほど広くない堂内には、古い不思議な彫刻が一杯。 コロンブスの大陸発見以前の建設にもかかわらずトウモロコシやサボテンなどアメリカ新大陸をモチーフとした彫刻があるなど、確かに謎が多い。 伝説では、師匠が出張している間に弟子が余りに立派な柱を作ったため、嫉妬して弟子を殺してしまったという 「アプレンティス・ピラー」(弟子の柱)がある。

礼拝堂は廃墟となったロスリン城の先にある 仮設の屋根をかぶったロスリン礼拝堂

                   ロスリン礼拝堂の説明板



エディンバラ城

エディンバラの岩山の上から町を見下ろすように建つ城は、キャッスル・ロックといわれる。 城は幾度かの戦闘のたびに増改築が繰り返された。 現在残されている最古の建物は1110年に建てられた礼拝堂である。 王宮にはスコットランド女王メアリー・スチュアートが、スコットランド王ジェイムス6世(イングランド王ジェイムス1世)を生んだ「メアリー女王の部屋」がある。 また、各種の宝器が保管されているが、残念ながら撮影禁止。

エディンバラには沢山の古い火山から出来た岩山がある。
面白いことに、みんな東に向かってなだらかに傾いている。
遠くに見えるエディンバラ城も、古い火山の岩山の上に建てられている。

スコット・モニュメント付近から仰ぎ見るエディンバラ城

空濠を渡り、入城する
 
スコットランドの旗が翻る城門
 
スコットランドの紋章
のレッドライオン

大砲の列 大戦祈念慰霊堂

ルネッサンス期に建てられたグレートホール



エディンバラ市内散策

スコット・モニュメント
スコットランドを代表する文豪サー・
ウォルター・スコットを記念したもの
DOMEカフェ
元銀行。見事なドームの下で、
ティータイムを楽しんだ

国立スコットランド美術館
ラファエロ、ベラスケスなどの名画を鑑賞したが、残念ながら撮影禁止

                土産物屋の地下のタータン織物工場 (織物工場が土産物屋をやっている?)
タータン とは、スコットランドのハイランド地方で発達した特徴のある格子柄のことである。 現在は民族衣装であるキルト(スカート状の衣装)、フライ(肩掛け)、ホーズ(靴下)などに用いられ、スコットランド全域で使用されているほか、ファッションの素材として世界中で使用されている。 なお、タータン・チェックは和製英語であり、スコットランドでは単にタータンと呼ばれているそうだ。

タータンの元となった布を格子柄に織る習慣は、5世紀にアイルランドから伝来したものと考えられている。 薄い色に染められたリネン(麻布)で格子柄に織られていた。 16世紀になるとハイランドの衣服についての記録が残されるようになり、シャツの他にさまざまな色で織られた薄いウールの布を身にまとっていたこと、その配色に氏族的・地域的な特徴があったという。


コナン・ドイルの像
シャーロックホームズの作者であるアーサー・コナン・ドイル(1859-1930)は、エジンバラ生まれの小説家
コナン・ドイルが住んでいた住宅
今は喫茶店になっている
 

                電話の発明者グラハム・ベルが生まれた家
アレクサンダー・グラハム・ベル(1847-1922)は、スコットランド生まれの学者、発明家。 その生涯を通じて科学振興および聾者教育に尽力した。 エディンバラ大学で音声学を学んでいるが、電気と音声についても興味を持つ。 1868年ロンドン大学 に学ぶ。 1870年カナダに、後にアメリカへ移住する。 猩紅熱の後遺症で深刻な問題であった聾者教育のために東海岸の複数の学校で視話法を教える。

1876年2月14日、ワシントン特許局に「電信の改良」の特許を出願。 同年3月10日に電話の実験に成功、最初の言葉は、助手のワトソン氏に対する「ワトソン君、用事がある、ちょっと来てくれたまえ」
("Mr. Watson ! Come here; I want you !") だったという 。

なお、この住宅(アパート)は、ジョージアン・スタイルといわれ、英国ではごく普通の住宅様式である。
ジョージ1世(在位1714-1727)から3世(在位1760-1820)までの1世紀は、ジョージアンと呼ばれる。


THISTLEホテルに夕食とスコットランド音楽を聴きに行く
上の画像をクリックして、ビデオをご覧下さい



3日目 エディンバラセント・アンドリュースブレア城インバネス

スコットランドにはこのような地形が多い。 2万年ほど前の氷河期にに氷河によって削られた地形であろう。
 
スコットランドは北緯56〜58度(極東でいえば、カムチャツカ中央部に相当)にある。 メキシコ湾暖流の影響があるとはいえ、寒さが厳しく針葉樹が多い。

この辺は、耕作地よりも牧草地が多い。


聖アンドリュース大聖堂

かつてスコットランドで最大規模を誇っていた12〜13世紀に建設された聖堂跡。 現在は墓地になっている。 16世紀の宗教改革によって、壮大な建物のほとんどが破壊された。 廃墟に往時を偲ぶ。

1860年に設立された全英オープンに4回優勝したトム・モリスは、当時の売れっ子コース設計家だったという。
ホールに鉄製のカップを埋め込むことを考案したのも彼で、そのサイズは現在も変わっていない。



英国ゴルフ博物館

ゴルフ発祥の地セント・アンドリュースにある英国ゴルフ博物館
500年に及ぶゴルフの歴史を、写真や映像で紹介している

セント・アンドリュース・ゴルフコースで
記念写真を撮るゴルファーたち
1番ホールのティー・グランド
 

ゴルフコースから一歩出ると、北海が広がっている
 
北海に面するこの地方の家は、
強風に耐える強固な石造りである



スコットランドの農村風景

牧草地
 
野菜畑の自動散水、人影はほとんど見られない。英国の農業人口は2%に過ぎないが、食料の70%を自給している。

英国の耕地は概して平坦地であるが、スコットランドではこのような丘陵地も見られる

ダンダラック・ホテル

文豪夏目漱石は、明治33年(1900年)、文部省から英文学研究のため英国留学を命ぜらた。 シェイクスピア研究家のウイリアム・クレイグの個人教授を受けたり、『文学論』の研究にいそしんだりするが、英文学研究への違和感がぶりかえし神経衰弱に陥り始める。 また東洋人であることでいわれなき人種差別を受け傷心し、研究が進まない苛立ちも重なったのか、何度も下宿を転々とする。

そんなときスコットランドを旅行して、ここダンダラック・ホテルに泊まり、心が癒されたという。

庭からホテルを見る シャクナゲが美しい

ホテルから眺める庭と借景

漱石が心を癒されたホテルということで、ゆかりの品が飾られている



ブレア城

ブレア城の歴史は、13世紀にさかのぼるが、その後幾度か改築を重ね、18世紀にほぼ現在の姿となった。

美しい白亜の外観
 
内部の絵画や武器のコレクションは圧巻であるが、
玄関ホール以外は撮影禁止



北の農場(車窓から)

ヒースの荒野 花を咲かせるエニシダ(マメ科 エニシダ属)
ヒースheath)は、本来は英国北部、アイルランドなどにおける荒地のことである。 そこには独特の背の低い植物群が群生する。 また、そのような植物群を指してそう呼ぶ場合もある。 秋に花を咲かせる野草で、 泥炭地によく生えるといわれる。 主要な構成要素の植物は、エリカ属などである。

シラカバかダケカンバ(カバノキ属) 羊の放牧

整然とした野菜畑 ジャガイモの収穫だろうか? たいへん効率的!



4日目 インバネススコッチウイスキー蒸留所カローデンインバネス


グレンフィディック・スコッチウイスキー蒸留所

スコットランドといえば、何はさておいてもスコッチ・ウイスキーである。スコッチ・ウイスキーの名門、グレンフィディックの蒸留所を見学した。 グレンは谷、フィディックは鹿だから、グレンフィディックはさしずめ「鹿の谷」ということになる。

ウイスキーの主原料である大麦 ウイスキーに独特の香を与えためのピート
ピート(泥炭、peat)は、主に低気温地域の沼地で、植物遺骸が十分分解されずに堆積して形成される。 炭素の含有率が低く(不純物が多く)、含水量も多いという品質の悪い燃料であるため、日本では工業用燃料としての需要は少ない。 スコッチ・ウイスキーに使用する大麦を発芽させて麦芽にした後、麦芽の成長をとめるために乾燥させるのだが、そのための燃料として、香り付けを兼ねて使用される。 なお、この時つく香りをピート香という。

蒸留所内をゆっくり歩く

大麦を発芽させてできた麦芽を、
アルコール発酵させる釜
釜の中を覗くと、ぶくぶく発酵している
 

アルコール発酵が終わった糖化液を蒸留する蒸留釜
撮影は入口まで、ここから中は撮影禁止! この後、樽に詰めて熟成
グレンフィディックは、私の好きなスコッチの1つ
樽に詰めて熟成
熟成用の樽は、主として中古のシェリー樽とバーボン樽が多く使用される。 どの樽を使用するかによって、ウィスキーの色や風味に影響がある。 法律上は最低3年間の熟成が義務づけられるが、実際に販売されるものは、8年以上熟成を経たのが圧倒的に多い。 熟成年数が長くなると、琥珀色が濃くなり、香り、味などに深み・複雑さを増すが、管理費用、自然蒸発(これを「天使の分け前」(angels' share) と呼び、年に2〜3%ずつ蒸散する)によって希少性が高まるため、値段が急上昇する。
熟成倉庫も見学したが、撮影禁止。何年物がいくらあるか分かるから禁止は当然!


見学が終わると、楽しい試飲 蒸留所の庭に栽培されているヒース



コーダー城

シェイクスピアの名作「マクベス」の舞台として有名なコーダー城を訪ねた。
「マクベス」は1606年ごろに執筆されたと推定されており、スコットランドの実在の王マクベス(在位:1040-1057)をモデルにしている。 しかし、コーダー城の原型が建てられたのは14世紀なので、実際にマクベスの居城となっていたわけではない。 ここは、現在もコーダー男爵の冬の家として使われているという。

コーダー城へのアプローチは、素晴らしい緑である

スコットランドで一番優美な城といわれるコーダー城

城内のレストランに入る コーダー家の紋章であろうか

コーダー城の素晴らしい庭

大きく育った庭木の樹種は様々



カローデンの古戦場

                     背景
1688年の名誉革命でジェームズ7世が追放され、1714年にはスチュアート朝が断絶した。 だが英国議会は、カトリックのスチュアート家を排除するため「王位継承法」を定め、王はプロテスタントに限るとし、ドイツからハノーバー家のジョージ1世を招いて即位させた。 するとスコットランドでは、ハイランド(スコットランドの北部)のカトリック諸侯がジェームズ7世の子でジェームズ8世を自称したジェームズ・エドワードの王位を主張して反乱を起こした。 彼らはジェームズの名にちなんでジャコバイトと呼ばれた。

1745年、ジェームズ8世の子チャールズ・スチュワートがスコットランドに上陸すると、ハイランドのジャコバイト5000人がこれに呼応し、挙兵した。 チャールズはついにスコットランド全域を支配化に置き、父の連合王国王位を宣言した。 ここで彼がスコットランド王位だけを宣言していたら、歴史は変わっていたのかもしれない。 だが彼はイングランドの王位をも求め、イングランドに侵攻し、ロンドンまであと200キロに迫った。 しかしジャコバイト軍は補給線が完全に伸びきっており、戦わずして撤退せざるを得なかった。


                 カローデンの戦い
カンバーランド公(チャールズのいとこ)率いる政府軍はハイランドまで進撃し、ついにジャコバイト軍をカローデンに追い詰めた。 ジャコバイト軍は、見通しのよい平地で豊富な大砲を持つ政府軍に小盾と剣で戦うことになったのである。 1746年4月16日ジャコバイト軍はわずか60分で1250人の戦死者を出し、粉砕された。 敗れたチャールズは女に変装してフランスに逃れた。

英国政府は反乱の再発防止のために、スコットランドにキルトとタータンの着用を禁じ、氏族制度を解体して政府軍をハイランドに常駐させた。 スコットランド人にとって、これは屈辱的な仕打ちであった。

身を隠すところのない平地で、豊富な大砲を持つ政府軍に対して、
ジャコバイト軍は小盾と剣で戦った (左は建設中の博物館)

赤旗は政府軍の前線を示す 青旗はジャコバイト軍の前線を示す

現地に建てられた両軍の前線の位置を示す説明板

戦闘の記念塔



5日目 インバネスアーカート城グレンコーローモンド湖グラスゴー

アーカート城

ネス湖の湖面に朽ち果てた姿を映すアーカート城は、1230年の築城だが、1296年にエドワード1世率いるイングランド軍に包囲された。 最後の城主スコットランドのグラント一族は、この地を去るとき自ら火薬で城を爆破したという。

ビジターセンター ビジターセンターから眺める廃墟

雨の中のアーカート城とネス湖(ネッシーは見つからなかった)

投石機と100kgの石球

ここにもはためくスコットランド旗  兵どもが夢の跡



カレドニア運河

カレドニア運河は、北海と大西洋を結ぶために1803年から44年かけて建設された。 ネス湖やイギリス最大の湖ローモント湖をつないで全長96km、運河部分は35km。 低いとはいえ途中で分水界を越えるので、29個所の閘門(こうもん、ロック・ゲート)がある。

カレドニア運河とネス湖によって、大西洋と北海は水路で
結ばれた。 ネス湖は、地学的には地表の継ぎ目である。
                  Google Earthによる衛星写真を改変
ネス湖付近の観光地図
カレドニア運河は、この地図の左下のフォート・オーガスタ付近にある。                  地球の歩き方から引用

A A
Bさらに下流側にも閘門が見える A左の閘門と右の閘門の間に船を入れ、間の水位を調整してから開く @上流側には船が待機している



グレンコー

今回の旅の北端グレンコーに行く。 ここは英国には珍しい山と渓谷の美しいところであるが、実はここに、「グレンコーの虐殺」として知られるイングランド・スコットランドの争いの悲惨な歴史がある。

美しい渓谷が心なしか陰惨に見える 「グレンコーの虐殺」の記念碑

                グレンコーの虐殺
1692年、イングランド政府内強硬派およびスコットランド内の親英勢力の手によって、スコットランドのグレンコー村で起きた虐殺事件である。 規模は歴史上の虐殺事件に比して小さいものであったが、罪なき村民が背信行為によって殺された手法と経緯に、国内外から批判が集まった。 これによって名誉革命体制は打撃を受け、イングランド・スコットランド関係が険悪になる原因を作った。

17世紀末のブリテン島において、北端のハイランド地方の人々はロンドン・ウェストミンスタの支配力が及ばなかった。 1688年の名誉革命によって王位についたウィリアム3世はフランスと交戦状態に入っており、北方の地を従わせることは対フランス戦略においても、また屈強をもって知られるハイランド人を味方に引き入れるためにも必要と考えられていた。 いっぽう革命によって王の座を奪われフランスに亡命したジェームズは、革命の原因でもある自身のカトリック信仰によって、アイルランドやフランスで支持されていた。

1691年8月27日、ウィリアムはハイランドの氏族長たちに、明くる1月1日までにウィリアムに従うと誓約するよう──しないならば、血の制裁があるであろうという脅迫付きで──求めた。 12月も中盤になってジェームズから「とりあえず」署名しておくようにとの意思が届いた。氏族長たちは冬の雪のなか、急いで署名の場に向かった。

氏族長たちは続々と署名に集まったが、なかには期限間近になって到着する氏族もあった。 しかしイングランドのほうが一枚上手で、土壇場になって署名の場を変更し、しかも関所を設けて足止めをはかった。 結果的にグレンコーのマクドナルドが1月2日になって到着し、治安判事の不在によって署名は1月5日にずれこんだ。 これを名目として、イングランドの革命支持強硬派は実力行使の矛先にグレンコーのマクドナルドを選んだ。

1月、ハイランドの別の氏族のキャンベルは、手勢120名を従えてマクドナルド氏族を訪ねるようイングランド政府から命じられた。 1月末ごろ、彼は部下たちとともにグレンコーのマクドナルド氏族の村に到着し、2週間ほど滞在した。ハイランド氏族の間には客人には宿と食事をあたえるべしという慣習が古くからあり、マクドナルドはこの慣習にのっとりキャンベルと部下たちを客人としてもてなした。 2月13日早朝、皆が起きる前に、キャンベルとその部下は家々に火をかけ、族長以下38名を刃にかけ、40名の女性・子どもが焼死した。

事件の情報が広まると、国内・国外から批判の声が上がり、名誉革命直後の不名誉な事件となってしまった。
                                    Wikipediaを改変



グレンコーの近くにある軍事訓練所のモニュメント
背後の山は英国最高峰ベン・ネビス山(1344m) 残念ながら雨のため山頂は見えない

この地形を見て、ハッとした。 氷河地形に違いない!
氷河期に氷河によって削られたU字谷である。
近くのビジターセンターを覗くと、「ここは氷河地形である」
と説明してあったので、説明パンフレットを買い求めた。

英国の地質と地質学の歴史についてご覧になる方は、ここをクリックして下さい。




ローモンド湖

今回の旅の最北端から南下して大西洋に近いローモンド湖に着く。 この淡水湖は長さ39km、幅が8km、スコットランド最大の湖である。 1976年1月、ラムサール条約登録地となった。

この湖はネス湖と同様、川のように細長い。ブリテン島の形成過程で、繋ぎ目が湖になったのであろう。 美しい湖畔のラース村
 

園芸屋さんで売られているヒースの苗 ずいぶん早咲きである



6日目前半 グラスゴーイングランドへ

グラスゴー駅周辺散策

出発前のひと時、ホテルの周辺を散歩した。 大都市のターミナルの割には混雑していないこと、近くのグライド川に架かる橋が多いことに驚いた。

朝のグラスゴー・セントラル駅
スコットランド最大の都市グラスゴー市内にあるターミナル駅である。 開業は1879年。

グライド川に架かる橋






グラスゴー大学

15世紀に創立された名門大学で、スコットランドではセント・アンドリューズ大学に次いで古い。 中世から高位聖職者を出し、近世以降では、電力単位で知られるジェームズ・ワットや富国論のアダム・スミスなど、歴史上の重要人物を多く輩出している。 アンシャン・ユニバーシティーの1つである。

        アンシャン・ユニバーシティー(ancient university)
イギリスの中世において創設された六大学の総称。大学名と創立年は下記の通り
  オックスフォード大学 (1249年)
  ケンブリッジ大学 (1284年)
  セント・アンドリューズ大学 (1411年)
  グラスゴー大学 (1451年)
  アバディーン大学 (1494年)
  エディンバラ大学 (1582年)                     
 Wikipediaより引用


グラスゴー大学の正面ゲート
 
 
正面ゲートに記された学者の名前
グラスゴー大学出身のノーベル賞受賞者は6名とも20名ともいうが、ここに記されている人々は、必ずしもノーベル賞受賞者ばかりではない。

中庭を取り巻く古めかしい校舎

ギルバート・スコット・ビルデイング



グラスゴー大聖堂

中世スコットランドの大聖堂は、宗教改革の際にほとんど破壊されてしまったが、この大聖堂は、例外的に破壊を免れた貴重なゴシック建築である。 12世紀にデビッド1世によって建てられて以来、幾度も増改築を重ね、現在の姿になったのは15世紀に入ってからである。

大聖堂の外観

大聖堂の内部 美しいステンドグラスは新しいものらしい

大聖堂の近くのジョージ広場に、スコットランド出身の何人かの偉人の像がある
デイビッド・リビングストン(1813-1873)は、スコットランドの宣教師であり、ヨーロッパ人で初めて、当時「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ大陸を横断した探検家である。

ジェームス・ワット(1736 - 1819)は、スコットランドのエンジニアであり、蒸気機関の改良をおこない産業革命の進展に貢献した。


プロバンド領主館  1471年に建てられた現存するグラスゴー最古の建物




スコットランドからイングランドへ

グラスゴーから一気に南下して、国境(?)の村グレトナ・グリーンスコットランドからイングランドに入った。

車窓から見るスコットランド最後の家
 
通り過ぎると、同じ家にスコットランド最初の家と書いてある。
反対側から来た人のためである。 スコットランド人のウイット?



英国(1)のスコットランドの旅は、いかがでしたか。
英国(2)は、イングランドの旅です。
    引き続き、
下の [次へ] をクリックして、英国(2)をご覧下さい。



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